「虐殺の町」ブチャで進む復興と占領の過酷体験 ウクライナで見た戦時下の緊張と未来への胎動

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ブチャとキーウの間にある町イルピンに向かう橋は至るところ破壊され、兵士の遺体も放置されていた。ロシア兵に銃を向けられたままで、背中から撃たれるのを恐れながら橋を渡った。

イルピンでは零下10度の寒さの中、午前5時まで民家の地下室で過ごした。イルピンはロシア軍の砲撃に晒されており、非常に危険だった。ロシア兵が来て、男は外に出るように言われ、しばらくして銃声が聞こえたので、皆悲鳴を上げた。しかし、兵士はスマホを地面に並べそれを撃ったのだった。「もし撮影すればお前たちを撃つ」という意味だった。

ウクライナ非常事態庁のバスに乗ることができ、数時間バスで進むと兵士が乗り込んできて、「ウクライナに栄光を」と叫んだ。ようやくウクライナ軍の支配地に来たことがわかり、バスの中は歓喜に包まれた。

ロシア兵がブチャで民間人を殺害した理由

なぜロシア兵が残虐だったのか、という質問に対するバルトシュさんの回答は、実際にロシア兵に接触した人の証言として説得力があった。

第1に、ロシア兵は自分たちを解放者と思い、ウクライナ人に歓迎されると思っていた。しかし、ウクライナ人は手持ちの銃や火炎瓶を使い激しく抵抗した。住民の多くが抵抗者と見なされた。

第2は恐怖で、ロシア軍司令官は父に、夜間に14人の兵士が用を足しに行ったが、2、3人しか帰ってこないことがあったと語っていた。ロシア兵はしばしば恐怖にかられ、住民を殺した。

第3はキーウを占領できなかったことだ。ブチャとイルピン境界の橋を攻略できず、そこから先に進軍できなかった。そのいらだちの矛先が住民に向かった。

ブチャで非人道性の象徴となったのが、市南部をほぼ東西に走るヤブロンスカ通りだ。ロシア軍の撤退直後にウクライナ軍当局が撮影した映像には、通行中に射殺され、道端に放置された多くの民間人の遺体が写っていた。ヤブロンスカ通りはイルピンへ向かう道で、多くの住民が脱出を疑われ射殺されたと見られる。

「死の通り」とも呼ばれるようになったヤブロンスカ通りだが、私が取材した5月15日、きれいに舗装され、多くの沿道の住宅が完全に建て替えられていた。時速80キロ以上は出ていると思われる猛スピードの車がひっきりなしに通り過ぎた。

ヤブロンスカ通りは舗装され、住宅は建て替えられていた(
「死の通り」と呼ばれたブチャのヤブロンスカ通りは舗装され、住宅は建て替えられていた(筆者撮影)
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