「50本ダッシュの足跡だよ」
「足跡?」
「ラインの手前で折り返した足跡が、周だけなかった」
「本当に周くんだけなのか?」
「おうよ」板垣が頷く。「周の隣で走ってた健斗ですら、何本かズルしてたぜ」
「足跡なんて、よく気づいたね」
宮瀬がシャンプーの手を止めて、会話に加わる。
「俺様くらい徳が高くなると、すべてお見通しなんだっての」
「腰が曲がってるおかげで、目線が低かっただけだろうよ」
「まあ、ほかの奴らの気持ちもわかるぜ。ラインの手前で折り返しても、監督が見てるわけじゃねえし。1メートル手前ならまだしも、足の指分くらいだ。ただ──」
板垣は杖を手にして、目の前に一線を引いた。
「あのラインを超えたか、超えないかは、決定的に違う」
たった数センチ。ほかの選手たちも、手を抜いているなんて意識はないかもしれない。だからこそ、ラインを毎回確実に超えるのは、とても難しい気がした。
「人間は、無意識に力をセーブする生き物だ。限界まで追い込んだつもりでも、つい余力を残しちまう。だから、しんどいときにがんばれる奴は、本物だ」
板垣の言葉に、私は目を閉じた。のろのろと走っているように見えた周くんは、あれが彼の全速力だったのかもしれない。私が「ほどほどでやり過ごせ」と念じていたときもずっと、必死に走っていたのだとしたら。
これは想像でしかない。ただ、少しでも楽をしたかったら、わざわざ50本全部、白線を超えはしないだろう。ダッシュを終え、青白い顔で倒れ込んでいたことや、「死にそうでした」という言葉が、想像に真実味を与える。
「笑われても、歩いてでも、走ってる奴はよ、走ることをやめた奴より、よっぽど熱いわな」
板垣の独り言が、湿った浴室内にはっきりと響いた。
「まずは、必死に走ろうぜ」
かさぶたの隙間から血が滲み出すように、じわじわと身体が熱くなる。
湯船の水面に映る自分の影が揺れていた。
12年前のあの日から、ずっと自分を恥じていた。分際をわきまえず奔走し、失敗したあげく逃走した過去を消し去りたかった。でも、揺れつづける影が問いかける。
あの日、必死に走った自分が、本当に嫌いか?
静かに首を振る。
報われなかった努力を情けなく思うより、その努力を恥じて、走ることをやめた今の私のほうが、よっぽど情けない。
「明日から、朝練すっか」
板垣が拷問風呂から立ち上がり、言った。
「まずは、『死にそうでした』って言えるラインを超えるまで、必死に走ろうぜ。諦めるのはそれからだ」
「必死になることに関しては、若者より断然有利だしね」宮瀬が目尻に皺を寄せてウインクをする。「なにせ死が迫ってる」
「ふう。老いてて、ラッキーだったぜ」
板垣が沁み入るような声を上げた。
この日から、余白だらけだったカレンダーは、すべて「応援練習」の文字で埋まった。52年ぶりに声がつぶれ、ウィスパーにハスキーまで追加された。筋肉痛で箸を持つ手が震え、妻に本気で病気を疑われた。私が1回貧血で倒れ、宮瀬が2回熱中症で嘔吐し、板垣が3回脱水になり泡を吹いた。
必死な毎日は大変だった。けれど、1つ気づいたことがある。
楽ではない日々は、楽しい。
そして、あっという間に2か月半が過ぎた。
7月最終日曜、ミラクルホークスの試合の日を迎えた。
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