70歳同級生3人が少年野球の応援団になった日 小説『おかげで、死ぬのが楽しみになった』第1話(7)

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「50本ダッシュの足跡だよ」

「足跡?」

「ラインの手前で折り返した足跡が、周だけなかった」

「本当に周くんだけなのか?」

「おうよ」板垣が頷く。「周の隣で走ってた健斗ですら、何本かズルしてたぜ」

「足跡なんて、よく気づいたね」

宮瀬がシャンプーの手を止めて、会話に加わる。

「俺様くらい徳が高くなると、すべてお見通しなんだっての」

「腰が曲がってるおかげで、目線が低かっただけだろうよ」

「まあ、ほかの奴らの気持ちもわかるぜ。ラインの手前で折り返しても、監督が見てるわけじゃねえし。1メートル手前ならまだしも、足の指分くらいだ。ただ──」

板垣は杖を手にして、目の前に一線を引いた。

「あのラインを超えたか、超えないかは、決定的に違う」

たった数センチ。ほかの選手たちも、手を抜いているなんて意識はないかもしれない。だからこそ、ラインを毎回確実に超えるのは、とても難しい気がした。

「人間は、無意識に力をセーブする生き物だ。限界まで追い込んだつもりでも、つい余力を残しちまう。だから、しんどいときにがんばれる奴は、本物だ」

板垣の言葉に、私は目を閉じた。のろのろと走っているように見えた周くんは、あれが彼の全速力だったのかもしれない。私が「ほどほどでやり過ごせ」と念じていたときもずっと、必死に走っていたのだとしたら。

これは想像でしかない。ただ、少しでも楽をしたかったら、わざわざ50本全部、白線を超えはしないだろう。ダッシュを終え、青白い顔で倒れ込んでいたことや、「死にそうでした」という言葉が、想像に真実味を与える。

「笑われても、歩いてでも、走ってる奴はよ、走ることをやめた奴より、よっぽど熱いわな」

板垣の独り言が、湿った浴室内にはっきりと響いた。

「まずは、必死に走ろうぜ」

かさぶたの隙間から血が滲み出すように、じわじわと身体が熱くなる。

湯船の水面に映る自分の影が揺れていた。

12年前のあの日から、ずっと自分を恥じていた。分際をわきまえず奔走し、失敗したあげく逃走した過去を消し去りたかった。でも、揺れつづける影が問いかける。

あの日、必死に走った自分が、本当に嫌いか?

静かに首を振る。

報われなかった努力を情けなく思うより、その努力を恥じて、走ることをやめた今の私のほうが、よっぽど情けない。

「明日から、朝練すっか」

板垣が拷問風呂から立ち上がり、言った。

「まずは、『死にそうでした』って言えるラインを超えるまで、必死に走ろうぜ。諦めるのはそれからだ」

「必死になることに関しては、若者より断然有利だしね」宮瀬が目尻に皺を寄せてウインクをする。「なにせ死が迫ってる」

「ふう。老いてて、ラッキーだったぜ」

板垣が沁み入るような声を上げた。

この日から、余白だらけだったカレンダーは、すべて「応援練習」の文字で埋まった。52年ぶりに声がつぶれ、ウィスパーにハスキーまで追加された。筋肉痛で箸を持つ手が震え、妻に本気で病気を疑われた。私が1回貧血で倒れ、宮瀬が2回熱中症で嘔吐し、板垣が3回脱水になり泡を吹いた。

必死な毎日は大変だった。けれど、1つ気づいたことがある。

楽ではない日々は、楽しい。

そして、あっという間に2か月半が過ぎた。

7月最終日曜、ミラクルホークスの試合の日を迎えた。

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