なぜ危機にある日銀植田総裁にみんな優しいのか パウエルFRB議長は記者会見で吊るし上げ状態

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競馬である。

前回の記事「『技術革新はすばらしい』と考えるのは大間違いだ」(5月26日配信)の競馬コーナーで書いたように、東京優駿(日本ダービー、28日)は私も大いに期待していた。レース直後、スキルヴィングが急性心不全で他界した。

2番人気で、かつ将来を嘱望されていた良血馬が、ダービーという最高の舞台で死亡したことに、多くの競馬ファンが大きな衝撃を受けた。だが、競馬では、頻繁ではないが、このようなレース中、あるいは調教や放牧中の事故、ケガなどで死亡するリスクはつねにある。しかし今回は、舞台が舞台だけに大きな議論を呼んだ。

「人間の欲望としての競馬」をどう考えるべきか

とくに、死をいたみ、スキルヴィングのこれまでの健闘をたたえる多くのファンの言葉に、けんかを売るようなツイートが話題になった。代表的なものは「お前らの欲望のギャンブルのために、馬を利用しておいて、死を悼むのに美しい言葉を使いやがって」、といった類いの議論である。

こうしたツイートは猛反発を受けた。しかし、事実としては正しい。言い方が問題なだけで、人間の道楽のために動物が利用されている。それは動かしがたい事実である。

「ただのギャンブルではない」「サラブレッドの育成だ」というが、人間の好奇心のために、勝手に遺伝子の組み合わせを配合され、生物としての歴史すら操作されているから、「ただ残虐に殺す以上にひどい仕打ちだ」という見方もできる。

私自身も、このような事件が起きるたびに、競馬をやめようと思う。いたたまれなくなり、どうしていいかわからなくなる。

1つの考え方は「開き直りにすぎない」と批判を受けそうだが、開き直りなどではなく、やはり「これは生物として生きていくうえでの普通の現実の1つ」というものである。

人間は、食うために動物を殺す。植物を自然界とは異なる形で繁殖させる。自然を破壊することにより、人間は人口を増やしてきた。もちろん、それは食うためであり、それは生物の業である。必要悪である。

競馬は道楽であり、必要ない。無駄な虐殺、虐待だと。それも事実である。同時に、優秀な牡馬や牝馬を選び、残していく。戦争において、遺伝子を操作しようとした、民族に対する特殊な考え方をした人々が存在したことを想起させるかもしれない。

しかし、自然界においても、動物たちは強いオスだけがメスたちに選ばれる。優れた遺伝子を持った、いや環境に適合した遺伝子をそのときに持っている生物が、その時点では生き残る。それと本質的には同じことが起きているだけである。それをほかの種の生き物が当該の種の意向を踏まえずに行っていることは罪深いともいえるが、起きている現象でいえば、そういうことだ。

考えてみれば、繁殖のパートナーを選ぶためのルールを作っているのは人間だけかもしれない。とりわけ、一夫一妻制は自然界では極めて珍しい現象である。

それこそが人間社会の英知なのかもしれないが、英知なのか愚かな作為なのか、歴史が評価することになる。いや、増えすぎた人間を減らすために、自生的に生まれてきた優れたものなのか、人類が減少し、消滅することが自然界の歴史としては「正しい」ことなのか。それはわからない。ただ、そんなことをダービーの日に考えた。それだけのことである。

次ページ18日はユニコーンS。「次代を担う大物」は出るか?
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