アメリカ建国の父の逸話に仕事人の本質が映る訳 古典「フランクリン自伝」を読んで学べること
しかし、道路の一部は未舗装だったので、馬車が通るたびに舗装の上に泥が積もっていった。そこでフランクリンが道路の掃除をしてくれる人を探した。勤勉ではあるが生活に困っている男が見つかった。事情を話し、掃除を依頼すると、「この地域の各家庭が毎月6ペンスずつ払ってくれるなら、喜んでお引き受けします」という答えだった。
フランクリンはわずかな金額でどれだけの利益が得られるかを近隣の住民に告知する活動を展開した。靴に泥がつかないから家をきれいにしておけるとか、道路を歩くのが楽になるから客足が増えるとか、風が強い日でも商品がほこりまみれにならないから商売のためになるなどと、例によって細かい具体的な利得を記したパンフレットを印刷し、各家庭に配った。
どれだけの家がこの考えに同意したかを調べると、一軒残らず賛成だということが分かった。掃除夫の男による週に2回の道路掃除が始まった。フィラデルフィアの人々は道路がきれいになったことを喜んだ。「いっそのこと全部の道路を舗装したほうがよい。そのためなら喜んで税金を払う」という世論が形成され、フランクリンの道路舗装の主張は実現に至った。
今日の言葉で言えば「社会共通価値」、これこそがフランクリンが追い求めた成果だった。富や権力の集中から背を向けたフランクリンの生き方はアメリカの人々から絶大な支持を受けた。
しかし、ここで注目すべきは、社会の利益のために自分の利益を犠牲にしているわけではないということだ。社会に共通した価値ということだけでなく、自分の利益が社会全体の利益と共通している。フランクリンの目的設定は常にこの意味での共通価値を向いていた。
渋沢栄一との共通点
フランクリンの思考様式は、後世の日本に現れた渋沢栄一――日本近代資本主義の父――のそれと驚くほど共通している。渋沢の持論であった「論語と算盤」をある種のバランス論と勘違いしている人が少なくない。
つまり、資本主義なり商売の利益追求(算盤)はしばしば暴走してしまう。したがって、人間道徳(論語)でブレーキをかけなければいけない。渋沢は今日のESGやSDGsを先取りしていた――渋沢の主義主張をこのように理解している人は、おそらく『論語と算盤』をまともに読んでいないと思う。
道徳的な商売が長期的にはいちばん儲かる――これが渋沢の結論だった。頭の中が算盤だけの人は実は欲がない。本当に大きな欲を持つ商売人は必然的に「論語と算盤」になる。フランクリンと渋沢はともに大欲の持ち主だった。世の中全体を相手にしながらも、現実的合理主義で実利を見据え、自ら実行することによって社会共通価値の創造を果たした。
フランクリンや渋沢は現代のESGやSDGsを先取りしていたのか。そうではない。企業が社会的存在であることは今も昔も変わらない。人間の本性やそれによって構成される社会の本質もまたフランクリンの時代から変わらない。
変わらないことにこそ本質がある。世の中の不変にして普遍の本質をつかむ人は、国や時代がどうであれ、同じ結論に到達するというだけの話だ。
リーダーの一義的な資質は人間社会についての洞察力にある。人間と社会の本質を見極め、その本性を善用する。そこに古今東西のリーダーの本領がある。
大きな仕事を成し遂げるリーダーとはどのような人か――本書『フランクリン自伝』は、この永遠の問いに対するほとんど完璧な回答を与えている。
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