堀江貴文「信用がある人が人生でいちばん強い訳」 肩書やまじめさが価値を持たない「新時代の信用」
とはいえ、「堀江のことなんて信用できない」と感じている人がいるのは、事実としてよくわかっているつもりだ。それにしても、なぜぼくを信用できる人と、まったく信用できない人とがいるのだろうか?
それは「こういう人は信じられる」「こういう行動は受け入れられる」という基準が、人によってまちまちだからだ。だからぼくという人間は、ある人たちからは「信用できる」とされ、ある人たちからは「信用できない」とされる。
これをもう少しはっきりさせるため、ちょっとした思考実験をしてみよう。
あなたが思う「信用できる人」のイメージや条件を、どんなものでもいい、いくつでもいいから思い浮かべてほしい。
・勤続年数も長く、勤務態度もまじめ
・高偏差値の大学を卒業していて、成績優秀
・結婚して、きちんと子育てをしている
・持ち家もあり、堅実に貯金もしている
こんな人物像が思い浮かんだかもしれない。
あるいは、
・思いつきで行動せず、じっくり慎重に考えて計画的に行動する
・メールだけで用事を済ませず、直接会うことを大切にできる
といった行動スタイルを思い浮かべた人もいるだろう。
「事実」を見ようとしない人の末路
どうだろう?
ここに挙げたような人物像から、それほど違和感なく「たしかに信用できそうだな……」という感想を抱いた人もいるのではないだろうか?
もしそうだとすると、おそらくあなたは、ぼくのことを心からは信用できていないはずだ。
無理もない。なぜなら、ぼくはこれらの基準にはまったく当てはまらないからだ。ぼくは会社勤めの経験はないし、いまだに本業が何か自分でもよくわからない。
大学中退で住所不定のホテル暮らし。
離婚しているし、子育てもしていない。
面倒なことは人に任せっきりだし、性格はかなり飽きっぽい。
対面の打ち合わせどころか、電話すらも大嫌い。全部LINEで済ませたい人間だ。
発言は定期的に炎上して世間を騒がせているし、おまけに逮捕歴もある。
つまり、さっきの条件に当てはめれば、「信用できる要素」がゼロだ。
前述の「信用」観を持っている人には、なぜ堀江貴文がこんなに信用されているのかがさっぱり理解できないだろう。
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