人はなぜ「どうせ」思考に陥ってしまうのか 「目的を追いかけ続ける人生」に潜む限界
「どうせ」という言葉はくせものです。「どうせ汚れるのになぜ掃除するのか」「どうせ腹が減るのになぜ食べるのか」「どうせろくな人生じゃないのに、なぜがんばるのか」……現代人の思考の中には、こんなふうに「どうせ」が蔓延しています。
なぜ僕らは「どうせ」という思考に囚われるのか。それはおそらく、僕らが常に結果を求め、目標を達成することを求められる社会に生きているからだと僕は考えます。
学校でも、会社でも、家庭でも、私たちは常日頃「目標」や「目的」、あるいは「結果」を求められます。しかし現実には、世の中の物事は必ずしも明快な結果が出るものばかりではありません。現実は厳しく、良い結果を出すことが難しい……ということもありますが、そもそも社会に出てから僕たちが向き合う物事は、白黒はっきりつかないものが多いのです。
「どうせ」を生む目的至上主義
受験勉強のように「合格」「不合格」といったはっきりとした<結果>が目に見えるのは例外で、たいていの物事は、善悪、正誤、良い悪いの評価をはっきりとつけることは難しい。
必死に努力して手に入れた成果が、手に入れてみると良いとも悪いとも言えない、何とも手応えのないかげろうのようなしろものだと気づいたとき、僕らは「人生とは、なんと空虚なものだ」と感じてしまわざるを得ないでしょう。努力しても、悩んでも、考えても、「どうせ」最後には死んでしまう。だとすれば、何のために僕たちは生きているんだろう。
目的至上主義を突き詰めていけば、人は「どうせ……」という空虚さに突き当たらざるを得ないのです。
五月病というのは、私流にいうと、それまで目的を追い続けることに疑問を持たずに人生を送って来た人が、初めて「目的を達成することの空しさ」を体感することによって招き入れてしまう、抑うつ状態ということになると思います。
考えてみると、これはなかなか厄介な病です。「大学に入ること」や「就職すること」を目的に生きてきた人が、長い努力の末にその目標に到達した瞬間、長い長い、目的の見えづらい人生の道に立たされる。自分があれほど努力して得たものは何だったのか、という空虚さに囚われてしまう。
そして、その空虚さを埋めようと、ある人は「一生懸命勉強を頑張ろう」とするし、ある人は「資格を取ろう」とする。「とにかく出世してやる」とがむしゃらに仕事に全力を傾けようとする人もいるでしょう。
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