現代では、多忙であることがもてはやされている。ストレスに押しつぶされそうで、燃え尽きそうで、忙しい。それなのに効率は全然上がらない。僕たちの文化は、忙しさやストレス、過労自体を「到達点」と見なしている。このまま突き進めば、働きすぎて死ぬか、ロボットにとって代わられるかしか道はない。
単純作業からナレッジ・ワーク(知識労働)への移行が、この現状に大きく関係している。ナレッジワーカー(知識労働者)は、「8台のT型フォード車を作ったぞ」といったように、労働の成果を目で見ることができない。だから僕たちは、忙しさを成果の指標にしてしまう。
いかに忙しいかを測れば、生産性やクリエーティビティーをちゃんと評価するよりも手っ取り早いからだ。しかも、なんの成果もないのに、達成感を覚える場合もある。そして残念なことに、上司や同僚からも評価してもらいやすいのだ。
中毒者がどうにかして“次の一服”を手に入れようとするのと同じように、僕たちは忙しさを求める。そして具体的な指針がないのに、上司たちは「君たちの時間は会社のものだ」と繰り返す。すると、時間と価値、道徳と働くことが、心の中でべったりとくっついていく。
僕たちが追い求める「生産性」とは?
優れたナレッジ・ワークは、職人の仕事のようなものだ。熟練してこそ質が高まり、ただ流れ作業に身を任せるわけではない。ロボットやAIが担うようになる、くさびを打ち込むだけの単純作業の生産性と、多面的でクリエーティブな仕事の生産性は、成果の出方が違うのだということを考慮しなければならない。
デヴィッド・グレーバーはこう述べている。
「何百万もの人たちが、スプレッドシートにデータを打ち込むふりをしたり、広告会議のための心の準備をしたりすることに、人生の数十年を費やすべきだと誰かが決めてしまったのだ。セーターを編んだり、犬と遊んだり、バンドを組んだり、新しいレシピを試したり、カフェで政治について議論したり、友達のすごく複雑なポリアモリーな事情について話すよりも、そっちのほうがいいなんてね」