人類学者のデヴィッド・グレーバーは著書の『ブルシット・ジョブ──クソどうでもいい仕事の理論』(岩波書店・2020年)で次のように述べている。
「仕事をすることがよいという認識よりも、仕事をしていないことがすごくまずいという認識が広がっているようだ。つまり、欲しくもないものを手に入れるためであっても、ボロボロになって働いていなければ悪人で、ただ飯食いの怠け者であり、いやしむべき寄生虫だから、社会からの同情にもなぐさめにも値しないという認識だ」
勤勉な人は素晴らしく、働かない人はさげすまれるべき。そういうことだ。
この考え方の成り立ちを知らないとしても、給料に見合うために忙しいふりをしたり、ストレスにさらされたり、働きすぎているふりをしたことがあなたにもあるのではないだろうか。または、楽しんだことにお金は払われるべきではないという認識がないだろうか。
とても妙なのが、僕たちのほとんどが自分の存在を仕事に見出そうとするのに、その仕事を嫌っている場合が多いことだ。グレーバーはこの現象を「現代の仕事のパラドックス」と呼ぶが、清教徒的視点から見ればなんの矛盾もない。これがあるべき姿なのだ。
仕事を人格形成のツールと捉えるならば、仕事がつらければつらいほどいい。仕事への憎悪が自分への尊敬や自己価値の上昇につながる。忙しくして、ストレスを感じながら働きすぎることは、現代の神聖な自己犠牲の形なのだ。
働くことが「善」だった19世紀
19世紀初頭、産業革命が蒸気盛ん(言葉遊びだ)だった頃、プロテスタント的労働理念は人々の精神と文化に深く根づいていた。働いて生産的であることが道徳的最善とされ、身を粉にして働く労働者たちは、雇用主よりも自分たちのほうが崇高であると考えていた。
「富の福音、労働の福音」と題されたエッセイで、人類学者のディミトラ・ドゥーカスとパウル・ドレンバージャーは次のように述べている。
「怠惰な富裕層に対して、働くことで道徳的政治的優位に立つことができたのだ」