「非正規のほうがマシ」発達障害の47歳が抱く絶望 企業側とのミスマッチで生まれる「不協和音」
「診断当時は発達障害があまり知られておらず、犯罪者にその特性があったと報道されたこともあり『私はああいうのとは違う』と障害特性があることを直視せず、受け入れてきませんでした」
「特性を否定していても人生はうまくいかず、だんだんとうつや将来への不安が強くなって家に引きこもるようになりました。少し回復し、当事者の会に行くと同じ障害を持つ友人ができ、徐々に特性を受け入れるように。また障害者手帳や障害者雇用、就労支援や職業訓練などの情報を得られて、社会に出ていくきっかけになりました。仕事を始めたころには36歳になっていました」
最初は会社で事務職として働く上で、何が苦手で何が得意なのか具体的に自覚できていなかったという琴子さん。集中力のムラや処理速度の遅さをカバーするために、少しずつ工夫してできることを増やしていった。例えば、完璧な仕上がりを求めて、いくらでも突き詰めるのではなく、業務上求められている完成度を把握して仕上がりを調整することなどだ。
2社目に入った特例子会社(障害者への配慮など一定の要件を満たすと親会社の雇用率に算定できる子会社)では、ホームページのデザインなどを担当。写真加工ソフトの使い方を独学し、広告バナー作成や商品撮影のスキルを付けた。そのスキルをマニュアル化して他の障害者に教えることで、チームとして業務をこなせるようにもなった。
ただ、特例子会社では給与テーブルが本社の正社員とは異なり、伸び率も基本給も低かった。本社とは離れた場所にあり、ほとんどのメンバーはめったに本社に行くこともなかった。全国の販売員を集めたイベント等にも呼ばれない。そこでは、琴子さんが作ったノベルティやグッズが使われていたにもかかわらず、だ。
「ポテンシャルを見込んで勉強させてもらい、スキルアップもできたことには感謝しています。でも実績を出して自信もついてきて“もっと挑戦したい、業務の幅を広げたい”と思った時に、天井がとても低いとわかりました。一般企業の障害者雇用枠で働くことにしました」
定年まで勤めるつもりがミスマッチ
3社目も社員は仲が良く環境はよかったが、障害者雇用契約社員の正社員化は「前例がない」という理由でかなわなかった。40代にもなり、定年まで安定して働ける場所を求めて、大手企業グループの面接会に赴いてみて出会ったのが今の会社だった。
「給与待遇は今までで一番高いけれど、職場環境としては今が一番悪い」という琴子さん。差別や偏見に基づく発言や扱いをされたり、パワハラではないかと感じる場面があった。出産して産休や育休を経た際にも、「復職後は元部署に戻るのが慣例」とされ、ハラスメントの当事者だった上司の部下になるように求められた。