エスニック国道沿い「大泉」サンバの町に変貌の訳 1996年、「町の人口」の1割が外国籍の人になった
一方で、大泉の人々も困っていた。街にやってきたのは日系人といっても、彼らが育ってきたのはブラジルの社会だ。文化や生活習慣はだいぶ違う。そこに戸惑った。ごみ捨てのルールを守らない人も多かった。なにかにつけてパーティーをする文化はなかなか楽しいけれど、深夜の騒音に悩むこともたびたびだ。
ブラジル人の習性か、ついついはじめてしまう屋外でのバーベキューにも苦情はつきものだ。学校では日本語のわからない子どもたちをどう受け入れるべきか揺れた。学校になじめず、グレる子も出てくる。パウロさんが言う。
「少しずつ日本語がわかるようになってくると、まわりの日本人の噂話が聞こえてくるんです。近所のブラジル人と揉めた、もういやだとか」
町の人口の1割が外国人に
日系の移民たちも、受け入れる側の日本人も、軋轢の中で苦しんだのだと思う。それでもブラジルから「逆移民」してくる日系人は増え続けた。当初は誰もが2、3年の出稼ぎのつもりだったというが、ブラジルの不況もあって次第に定住化が進む。
1996年には西小泉駅のそばに「ブラジリアンプラザ」が登場、レストランや美容院、レンタルビデオ店、国際電話の会社などが入り、関東各地で働く日系ブラジル人の憩いの場として有名になったことで、大泉はだんだんとブラジルタウンとして知られるようになっていく。
この年、大泉に住むブラジル国籍の人は3273人となった。10年前の1986年には誰ひとりいなかったブラジル人が一大勢力となったのだ。ペルー人などほかの国と合わせると外国籍は4303人で、街の総人口の10.3%に達した。
それでも、なかなか住民同士の交流は進まなかった。
1991年から、毎年夏の「大泉まつり」にはブラジル名物のサンバパレードを開催するようになり、メディアにもたびたび取り上げられて街の名物ともなったが、「観客はよその地域から来る人ばかり。地元の人は見向きもしなかった」と語る住民もいる。
外部からの観光客で賑わうイベントに成長したが、あまりにも盛り上がりすぎてケンカなどのトラブルも増え、また「なぜ外国人にお金をつぎ込むのか」という意見も多く、2000年を最後に中止となってしまった。
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