エスニック国道沿い「大泉」サンバの町に変貌の訳 1996年、「町の人口」の1割が外国籍の人になった
そして2007年に発足していた大泉町観光協会が、その流れの中で、ブラジルの食や文化を「街の名物」として前面に押し出しはじめる。全国的にも珍しい「移民を観光資源としてアピールする街」になったのだ。製造業のほかにも、街に産業をつくりたいという思いもあった。
サンバパレードのような年に一度の祭りではなく、いろいろなことはあったが街が育んできたブラジルと日系人の文化を、見に来てほしい。だから大泉の観光マップには多国籍なレストランや食材店がびっしりとちりばめられ、僕たちのような異国文化を愛するファンにとってはたまらない。
YouTubeチャンネルだってあるし、ブラジリアンプラザの中にある観光協会には、街の歩みを伝える資料の展示や、移民・日系人関連の資料館もあって、これが貴重な資料たっぷりで充実している立派な観光施設なんである。
観光協会には日本人もブラジル人も加わり、ともに運営をしている。2014年のサッカーワールドカップや、2016年のリオデジャネイロ・オリンピックのときには、「共生のまち」としての情報発信も行った。
大泉の今
そしていまでは、日本で育った世代が地域を支える立場になりつつある。そのひとりであるパウロさんは、リーマンショック後の2009年に独立し、太田市内に自らの会社を設立。多言語でのデザインや、ウェブサイト制作を行っている。
幕田さんはブラジル銀行や広告代理店を経て、いまは不動産関連の仕事をしつつブラジル関連のセミナーや講演会、ワークショップなどを手がける。苦労をしてきた子どもたちの中から、起業家も生まれてくる時代になったのだ。
商店街で長く店を営む、ある日本人の女性が言う。
「あたし、感心するのよ。うちの近くにもいるけど、外国から来てさ、店舗を借りて商売しててね。大変なことだと思うの。漢字が難しいなんて言いながら言葉も勉強して。働いて家を建ててさ。見習わなくちゃって思うよ」
その言葉通り、いまでは自宅を構え、落ち着いた家庭を築く日系人が多くなった。文化の違いから来るトラブルも、差別も、ずいぶんと少なくなったという。
もちろん、異なる価値観が共存している以上、細かな問題はこれからもいくらだって出てくるだろう。それは僕の住む東京・新大久保と同様だ。それでも、30年にわたって衝突も交流も、さまざまな形でコミュニケーションを続けてきた大泉からは、ある種の安定感のようなものも感じられた。
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