エスニック国道沿い「大泉」サンバの町に変貌の訳 1996年、「町の人口」の1割が外国籍の人になった

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そんな街が変わるきっかけとなったのは「間違いなくリーマンショック」とパウロさんは言う。2008年のことだ。アメリカ発の世界的な金融危機によって製造業は大打撃を受けた。

きっかけはリーマンショック

その大波は大泉も直撃する。世界規模の需要減によって、富士重工業も三洋電機も、そのほか群馬のこの地域にある製造関連の会社は、軒並み大幅な減産となったのだ。当然、大泉や太田に点在する下請けの工場群は仕事がなくなる。そこに勤めていた日系人たちは次々とクビを切られた。

外国人は正社員ではなく、ほとんどが派遣社員だったから、立場が弱いのだ。景気の動向に合わせてまずコストカットの対象となる。雇用の調整弁というやつである。幕田さんは言う。

「大泉のブラジル人の、8割か9割が無職になったんじゃないかな」

住む場所を失い、公園や河川敷でホームレスになるブラジル人もいたし、子どももふたり餓死した。あまりの事態に日本政府は「日系人離職者に対する帰国支援事業」を開始。帰国する日系人本人に30万円、その扶養家族に20万円を支給するこの制度を利用して、たくさんの日系人が日本を後にした。

しかし支給を受ける条件は「日本への再入国をしないこと」。それは「手切れ金を渡すから、出て行って二度と帰ってくるな」と言うに等しいものだった(だが2013年、今度は少子高齢化による人手不足が顕著になると、日本政府はこの措置を撤回。帰国支援事業を使って帰国した日系人の再入国を認めた)。

全国で約2万人の日系人がいっせいに帰国し、大泉もずいぶんと寂しくなった。それでもこの国に残った日系人が考えたのは「日本人ともっと手を取り合わないと」ということだった。パウロさんが振り返る。

「それまでは、工場でもそこそこ稼げたし、自分たちのコミュニティの中だけで、日本人と交わらなくてもやっていけたんです。でもリーマンショックがあって、それではいけないと」

そんな気持ちは日本人も同様だった。大泉や太田の工場では、日本人だってたくさん働いているのだ。苦しいのは一緒だ。そう感じて、歩み寄る機運が出てきた。例えば日本の店では、ポルトガル語の表記を出したり、反対にブラジルの店では日本語のメニューを用意するような空気が、なんとなく生まれてきた。

お互いをもっと商売相手にしていこう、というわけだ。必要に迫られて、だったかもしれないが、顔を合わせているうちに新しい交流も生まれてくる。

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