葵に悪気はなかった。好きな仕事に復帰しないことを「我慢する」と言っただけで、(ユウキを育てることは、私も仕事よりも大事なことだと思っている)という気持ちが、健二には伝わっていなかった。
このことがあって以来、健二はことあるごとに、
「家のことはお前に任せる」
と、口にするようになった。健二の言葉には、「子育ては母親がするべきだ」という感情が無意識に表れていた。
そんな健二の態度は、葵の感情を逆なでした。
(なぜ、私だけが子育てを押し付けられなければならないの? あなたは仕事を理由に子育てから逃げているだけ。……でも、それを言えばきっと喧嘩になる)
葵も健二に対する不満を呑み込み、桐山少年が三歳になるまではと耐えていた。だが、子育てに追われる日々が、葵からだんだん「働きたい」という気力を奪っていった。
「仕事復帰するんじゃなかったのか?」
「じゃ、育児と家事手伝ってよ」
「そんな時間、あるわけないだろ。こっちは休日返上で働かなきゃならないほど忙しいんだぞ」
「私だって仕事に復帰したらそうなるわよ。そしたらユウキの面倒は誰が見るのよ?」
「保育園に預ければいいだろ」
「簡単に言わないでよ」
「何だよ。最初からユウキが三歳になるまでという約束だったじゃないか」
「それはあなたが言ったことでしょ?」
「君だって同意しただろ?」
「で? 私には家事と仕事を両立しろと?」
「わかってて、復帰したいって言ってたんだろ?」
「三年前の話でしょ? 育児がこんなに大変だって知らなかったし、それに」
「なんだよ?」
「あなたがこんなにも子育てに関心がないとは思わなかった」
「関心がないわけじゃなくて、俺はお前たちの生活を守るために必死になって働いてきたんだよ。今度は君が仕事に復帰して、少しは僕に楽させてくれよ」
「は? 私がこの三年間遊んでたみたいな言い方しないで」
「育児は仕事とは違うだろ?」
「じゃ、やってみればいいじゃない。どれだけ大変かわかるから」
「できるわけないだろ。仕事してんだから」
二人の言い争いは日常茶飯事に
売り言葉に買い言葉。感情のもつれのせいで、本来の言葉の意味はゆがみ、正しく捉えられなくなる。
桐山少年の物心がつく頃には、二人の言い争いは日常茶飯事となっていた。そのたびに、喧嘩の仲裁に入るのは桐山少年だった。
この日のディズニーランド行きの車中でも、
「僕が運転変わってあげれればよかったのに。お母さん、ごめんね」
と、割って入った。
桐山少年の言葉に嘘はなかった。葵のために心の底から運転を替わってあげたいという、心の底からの気持ちがある。そんな桐山少年の思いやりを葵は十分理解しているし、健二は、こんなに優しい息子は他にいないと自慢に思っている。
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