過去に戻れる喫茶店に来た7歳少年の切なる願い 小説『やさしさを忘れぬうちに』第1話全公開(1)

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黒いランドセルを背負った小学生
黒革のランドセルを背負った少年が「過去に戻りたい」理由とは?(写真:kouchan/PIXTA)
世界35カ国で翻訳、シリーズ320万部を突破している小説『コーヒーが冷めないうちに』。ハリウッドでも映像化され、世界中で話題のシリーズを東洋経済オンライン限定の試し読みとして配信。シリーズ最新作『やさしさを忘れぬうちに』の第1話「離婚した両親に会いにいく少年の話」の第1回をお届けします。

過去に戻るためにコーヒーを淹れる

過去に戻れる喫茶店は東京都千代田区神田の神保町にあった。

駅から少し離れた人通りの少ない路地裏の片隅に看板が出ている。喫茶店の名はフニクリフニクラ。店名の由来はイタリアのナポリ地方の民謡で、登山電車を運営する会社の依頼で作られたコマーシャルソングだと言われている。

赤い火の吹くあの山へ

登ろう、登ろう

という歌詞は誰でも一度は耳にしたことがあるのではないだろうか。日本では「鬼のパンツ」という替え歌で親しまれている。過去に戻れるという喫茶店に、イタリアの民謡のタイトルがついた理由は店主も知らない。

店主の名は時田流。身長二メートルを超える大柄な男で、常にコック服に身を包み、糸のような細い目で口数少なく、仁王像のように控えている。妻の時田計はウエイトレスとして働いていた。天真爛漫、おおらかな性格で大きな瞳のころころとよく笑う女性だった。だが、一昨年、心臓の病で娘のミキを産んだあとこの世を去った。ミキは今年二歳。くりくりとした大きな瞳は母親ゆずりだ。

ウエイトレスの時田数は流の従妹である。色白で切長の目に、スッと通った鼻筋と淡い桜色の唇。きれいと言われれば確かにきれいなのだが、印象に残らない。目を閉じると「あれ、どんな顔だったか?」と、すぐに思い出せなくなる。少女にも見えるし、落ち着いた大人の女性にも見える。口数少なく、話しているところを見たことがないという客もいる。

まるで、

(幽霊のように存在感がない)

と、噂されることもある。

ただし、過去に戻るためのコーヒーを淹れることができるのは、現在、

【時田数だけ】

である。

同じ時田の姓を名乗っているが、男である流には、過去に戻るためのコーヒーを淹れることはできない。これは時田家の女性にだけ与えられた能力であり、血筋における決まりであった。

「じゃ、コーヒー、淹れてください」

過去に戻りたいとやってくる客は、数がコーヒーを淹れれば過去に戻れると知ると、すぐにそんなことを言ってくる。

だが、しかし……。

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