被災地から戻った坂尾さんは潔くポールバセットを退職し、2012年1月に小さなロースタリー&カフェを開いた。高品質の豆を仕入れて自家焙煎し、訓練を重ねた技術で的確に抽出して、お客さまに直接手渡す。すべての工程に自分が責任を負うスタイルだ。店名のオニバスとは、ポルトガル語で公共バスを意味する。さまざまな人を乗せて、バス停からバス停へとつないでいく日常をイメージした。
だが、経営的に苦しい状況は1年以上続いた。コーヒーに関心の高い人々がいる街とはいえ、オニバスコーヒーが提案する、コーヒー豆の個性が際立つ浅煎りの風味に人々の舌が慣れるには時間がかかりそうだった。時間の余裕だけはたっぷりあったから、坂尾さんはコーヒーセミナーを開催するとともに、突破口を求めて時おり外に出た。ユニークな講座を展開する自由大学で「脱藩学」を受講したのである。これが人生の転機となる3度目の“旅”だった。
「脱藩学」とは坂本龍馬のような人物に学ぶということ? もうどこにも属していない身分なのに、なぜ脱藩?--と訊ねると、坂尾さんは笑って次のように答えた。
「受講中もよくそう言われたんですが、明治維新の人々をロールモデルにして、しがらみや既成の枠にとらわれずに現代社会で活躍する人々にインタビューし、自分の生き方を模索しようという趣旨の講座です。僕もコーヒー業界の狭い枠にとらわれず、他業種で新しい挑戦をしている人々とかかわりたいと思っていました」
コーヒータウンは幸福度の高い街
やがて坂尾さんは自ら、自由大学の講師を務めるようになる。コーヒーを日常にとりいれて日々の暮らしを豊かにしようというプレゼンテーションが認められ、授業化されたのである。コーヒーに関わってから自分の生活は変わった、と坂尾さんは言う。コーヒー生産地への視察を重ねることでコーヒービジネスが抱える課題を実感し、自然環境や毎日、口にするものの選び方などにも視野が広がった。
「どんな生産者がどう作ったのかが明らかになっているおいしいコーヒーには、同じ想いで作られたおいしいパンを合わせたい。透明性、持続可能性を求める動きは飲食だけでなく生活全体に広がっている。僕は自転車に乗るようになったし、可能な範囲でクラフト製品を選ぶようになった」。その考えを授業で伝え、コーヒーとともに新たなライフスタイルを提案する。
「オーストラリアのメルボルンや米西海岸のポートランドなど、おいしいコーヒーショップが地域の人々に愛されている街は、住民の幸福度が高い。だから僕はおいしいコーヒーと幸せの関係を信じています」
坂尾さんの講座を聴いて共感したIT企業の経営者は、アバウトライフコーヒーブリュワーズの共同経営者となった。「旅から得る最大の贈りものは、人とのつながりだ」と坂尾さんは語る。まさに、その通りだ。
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