実は信長に強気?姉川の戦いに見た家康の頑固さ 懇願する信長に対し、一歩も引かなかった家康

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信長としては、浅井長政が籠もる小谷城(滋賀県湖北町)を一気に攻め潰したい想いだったろうが、同城は堅城であり、周辺の町を焼き払うだけに留めている(6月21日)。

小谷の南にある横山城を攻めることを信長は考え、長浜に陣をしいているところに(同月24日)、家康が援軍として着陣するのである。

一方、浅井方にも援軍が到着する。朝倉景健の軍勢8000(『信長公記』)だ。浅井の軍勢は5000。6月27日の明け方、信長が陣払いをして退こうとしたところ、翌日、浅井・朝倉連合軍が動き出し、姉川(長浜市)を前にして陣を置く。

織田・徳川連合軍もこれに対抗し、同日の午前6時頃、合戦となる。姉川の戦いである。『三河物語』によると、合戦の前日、信長は家康に使者を遣わし「我が方の合戦の備えは、一番隊は柴田勝家、明智光秀、森可成だ。二番隊を家康殿に頼みたい」と申し入れてきたという。

家康が信長に抗議

しかし、家康は「是非、一番隊を命じてください」と抗議。信長は「すでに部隊の編成ができている。今更、彼らを一番隊から外すのもどうかと思う。だから、二番隊を引き受けてほしい。それに一番隊も二番隊も同じこと、二番隊といっても戦況によっては一番隊になることも多いので、是非、二番隊をお願いしたい」との返事をよこし、譲らない。

普通であれば、信長がここまで懇願しているのだからと折れてしまうだろうが、家康は違った。

「部隊の編成が済んで、今更、一番隊の者に二番隊を任せると言いづらいのはわかります。しかし、一番隊も二番隊も同じことと仰るのは納得できません。確かに、明日の戦では、二番隊が一番隊になることがあるでしょう。が、明日の戦いが後世の書物に載ったとき、一番隊は一番隊、二番隊は二番隊と書かれることでしょう。だから、是非、家康軍に一番隊を命じてください。私が老いているなら、三番隊でも四番隊でも仰せの通りにしますが、30歳にもならない者が、援軍にやって来て、二番隊だったと後々まで言われるのは嫌です。一番隊を命じてくださらないのであれば、明日の戦には参加しません。本日、陣払いして帰国します」と強硬論で粘ったのだ。

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