実は信長に強気?姉川の戦いに見た家康の頑固さ 懇願する信長に対し、一歩も引かなかった家康

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『三河物語』の先の記述では、詳しい事実関係が見えにくいので、補おう。

信長の越前攻めは当初は順調であった。険しい山に聳える手筒山城(敦賀市)を力攻めにして「敵の首、千三百七十」(『信長公記』)を挙げているし、朝倉景恒が籠もる金ヶ崎城(敦賀市)も4月26日には降していた。

朝倉方も奮闘はしていたが『三河物語』が記すように、強さゆえに勝利していたわけではない。さらに軍勢を進めるはずだった信長が、退却を決意したのは、朝倉方が強かったからではなく、北近江の浅井長政が裏切ったという情報が続々と寄せられてきたからだ(長政は信長の妹・お市を娶っていた)。

信長は撤退を決意

信長は初め、浅井の裏切りを信じなかったようだが、方々から頻々と「裏切りは事実」との知らせが入るので、ついに袋の鼠になることを恐れて、撤退を決意するのである。

『信長公記』には、信長は「金ヶ崎城には木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)を残すことにした」と書いてある。殿(しんがり)を秀吉が担ったのだ。

『三河物語』にも、このときの描写で、秀吉の名が書かれている。信長は秀吉には何らかの指令を出したであろうが、家康には退くという連絡はなかったようだ。

取り残された家康は驚いたことだろう。『三河物語』には家康は「夜が明けて、木下藤吉郎に案内させて退却した」とある。

好意的に解釈すれば、事前に、信長と秀吉の間で、家康のことも話し合われていた可能性もあるだろう。

この、いわゆる「金ヶ崎の退き口」(撤退戦)のとき、家康軍も殿の一翼を担ったとの説もあるが『三河物語』にも『信長公記』にも、そのような記述はない。殿を担当したならば、そのことを書くはずである。記載がないということは、家康軍は秀吉の知らせですぐに退却したのであろう。

家康は金ヶ崎の陣で、秀吉と初顔合わせをしたと思われる。後の2人の関係を考えると、感慨深いものがある。秀吉による徹退戦は成功し、信長も秀吉も家康も落命することはなかった。

信長は京都に逃げ帰り、家康は京都に戻った後で、岡崎城に帰還する。煮え湯を飲まされた信長は、同年の6月19日には浅井攻めのため、出陣した。

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