ビジネスパーソンの学びに「理由」がいらない訳 なぜ学ぶのか、その答えは後からやってくる

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むしろ、そんなアテにならない将来の必然性はそばに置いて、「面白そうだから学ぶ」で十分なのです。そして、学んでいる過程で、「ひょっとして、自分がデザイン領域を学んでいるのは、こういうことを実現するためなのかもしれない」と後づけで気づけばいいのです。

学び始めにWhyを問うべきではないもう一つ大事な理由があります。

それは、どれだけ緻密に学ぶ内容を定めたところで、期待通りの学びを得ることができない、ということです。

学びには「意図と結果は常に異なる」という黄金律があるのです。

実際に自分の過去を振り返れば、当初に意図したことをその通りに学べたことはほとんどなかったことに気づくのではないでしょうか。

大学の門を叩いた高校3年当時の「意図」と、実際の在籍4年間で得た「結果」が一致する人はそれほど多くはないでしょう。意図しなかった人との出会いや偶然の出来事からの気づきによって、学びというものは思わぬ方向に変質していったはずです。

もちろん、意図通りの学びを完全に得られなかったわけではない。しかし、事前の意図などちっぽけなものだと痛感させられるくらいの未知の学びが必ず待っている中で、「これを学ばなきゃいけない」と縛られるのは、その周辺にある宝物を見落としてしまうことになりかねません。

何を学んでも、人とは同じにならない

では、なぜ学びは意図通りに進まないのか。それは「知識の構成主義」にヒントを見出すことが可能です。

『私たちはどう学んでいるのか』(ちくまプリマー新書)という書籍で、認知科学の専門家である鈴木宏昭氏は、こう語ります。

相手からの情報、その記憶が知識となるためには、それらの素材を用いて知識として構成していかなければならないのだ。構成するのはもちろんあなただ。あなたのこれまでの経験は人と異なるだろうし、これから出会いそうな場面も異なるだろうから、構成される知識は人によって少しずつ異なってくる。より多くの関連した知識と結びつきを作ったり、その知識がカバーする事柄をたくさん経験した人が構成する知識は、単にクイズのように覚えた人のそれとはまったく異なったものとなる。
難しい言葉で言えば、知識というものは「属人的」なものなのだ。

つまり、ある知識を他者に伝えたとしても、受け取った側はその知識を自分の中の経験や他の知識と組み合わせて再構成してしまう、ということです。

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