1つめは、死そのものではなく、死に至るまでの過程に対する恐れです。
たとえば、がんという病気になった方の多くは、病気が進行したときの肉体的な苦痛を心配します。死にまつわる3つの恐れのなかで、肉体的な苦痛にまつわる悩みが最も多いということは、さまざまな研究で示されています(※1)。
この点については、以前書いた記事(「がんの終末期は苦しいのか」調査でわかった実態)を参考にしていただきたいです。
2つめは、自分が死ぬことによりさまざまな不都合が生じることに対する心配です。
残されるご家族のことを心配される方もいますし、大切な人との別れにやりきれないぐらいの寂しさや悲しさを感じる人もいます。責任を持って行っている仕事の引き取り手が見つからず、宙に浮いてしまうということを案じる人もいます。
3つめが、自らが消滅すること、死そのものに対する恐怖です。これについては「死のパラドックス」という表現で説明されています(※2)。
死のパラドックスが葛藤をもたらす
人間の脳は、死を予感させるものを認識したときに、強い恐怖を感じるようにできています。たとえば、手すりも何もない断崖絶壁に立ったとしたら、私なら恐怖でその場にへたり込んでしまうのではないかと思います。この脳の認識能力は、人間に危険を避けさせ、人類が生き残っていくために大いに役立ってきたと考えられています。
一方で、人間の脳は学習能力を発展させてきたため、すべての動物が死に至ることを理解しており、自分自身にも必ず死がやってくるということも理解しています。
ですので、強い恐怖の対象である死が、いずれは必ず自分に生じる。そして決して避けられない、というパラドックスがあり、人間に大いなる葛藤をもたらしています。
この葛藤に対して、歴史的には秦の始皇帝をはじめとして、不老不死の薬を求める人が多くいました。また、以前は宗教的な価値観が安心をもたらしていたのかもしれません。つまり、魂は不滅で、来世の存在や輪廻転生を信じることで、自分という存在の永続性が保証され、自分自身が消滅するという恐怖がやわらぐからです。
しかし、現代では宗教的な価値観が相対的に弱まるなかで、死に対する恐怖と、自らの考えで向き合う必要が出てきました。私たちが持つ認識能力は脳神経細胞によってもたらされることを知った今では、魂の存在を信じない人が多いからです。
では、多くの現代人はどうやって死の恐怖とどう向き合っているのでしょうか。
実は、冒頭の吉成さんのように、死については考えないようにしている人が多く、死にまつわる話題は現代社会では避けられる傾向があります。
会食の際に死の話題を持ち出すと、一部の人は眉をひそめるかもしれません。人生100年時代という言葉は私たちに希望を与える一方で、「死について考えるのは、まだまだ先で大丈夫だよ」という裏のメッセージを私は感じます。「ピンピンコロリ」という言葉がありますが、死に向き合うことをせず、人生を終えられることが理想だという人もいます。
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