「もののけ姫」が描いた「結果より過程」の哲学 目的なく「顔を出す」行為に支えられている社会

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エボシは女性やハンセン病者、高齢者、障害者など、自然を内包した人間たちと共に生きています。一方のサンは地球自体と言い換えられるような、言うなれば「文明の外部としての自然」の中で生きています。

この自然は人間が生きようが死のうが関係ありません。言うなればエボシもサンも、自然との関わりのうちに生きていることには変わりなく、「ままならないもの」を抱えて生きているという点では、同じ立場にいます。

この内外の自然の対決が物語の主軸をなす『もののけ姫』において、文明社会を代表するのがジコ坊であり、物語の主要キャラクターとして登場はしませんがタタラ場を襲う侍たちです。その中で独特な立ち位置にいるのがアシタカヒコです。

「自分の目で見て判断する」アシタカの尊さ

そもそもアシタカがタタラ場を訪れたのは、生まれ故郷の村を襲ってきたタタリ神を射抜き、呪いを受けてしまったからでした。彼はその呪いの謎を解くために、猪をタタリ神にしてしまった鉄の礫を持って、西へ旅立ちます。なぜなら村のシャーマンの老婆から、不吉なことが起こっている西の地において、「曇りなき眼で物事を見定めれば」呪いを断つ道が見つかるかもしれないと言われたからです。

こうしてアシタカは西へ旅立ち、最終的にたどり着いたのがタタラ場でした。タタラ場に着き、エボシに旅の目的を尋ねられた時、アシタカは鉄の礫を見せながら「曇りなき眼で見定め、決める」と伝えます。

こうして物語は進んでいき、アシタカは社会的弱者と共に生きるエボシの言い分も理解しつつも、山を破壊する人間たちを憎みタタラ場を襲撃するサンに対し、女性として、人間として好意を寄せるようになります。つまり頭ではエボシの行う社会的な意味も理解しつつ、心ではサンに思いを寄せてしまうのです。

このような葛藤状態に置かれたアシタカは、劇の終盤において「森とタタラ場、双方生きる道はないのか」と叫ぶに至ります。このシーンは、アシタカが「曇りなき眼で見定めよう」とした結果、「どちらかに決めないこと」を選んだことを意味しています。僕はこのアシタカの態度を、批評家の杉田俊介が現在の「弱者男性論」について述べた状態に似ていると考えています。

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