「武田信玄」家康を翻弄し不倶戴天の敵となる必然 ともにわが子を処断したリアリストの激突前夜

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戦国最強とうたわれた武田信玄と家康の関係とは(写真:PhotoNetwork/PIXTA)

もっとも信虎に反省の様子はなく、義元亡きあとは反乱を企てたり京に上って足利義昭に臣従し甲賀衆を率いたりと、なかなかの暴れっぷりを見せました。さらに、信玄よりも長生きし、最後は孫の武田勝頼の世話になったと言われています。いずれにせよ信玄にとって、父である信虎の追放は人生の大きな転機でした。しかし父の追放は、意外な形で信玄に返ってきます。

嫡男義信との暗闘

信玄の子・義信は、信玄の正室である三条の方とのあいだに生まれました。三条の方は京の公家、三条公頼の娘で、信玄の父・信虎による婚姻政策の一環でした。

義信は文武に優れ、初陣で信濃の知久氏の反乱を見事に鎮めています。激戦となった第4次川中島の戦いでは、上杉謙信の本陣に切り込み、謙信自ら太刀をもって防戦したとありますが、これは猛将であった祖父信虎を彷彿とさせる勇猛ぶりでした。

しかし、その後、信玄と義信の仲は急速に悪化の一途を辿ります。その大きな要因が、第4次川中島の戦いの前年に起こった桶狭間の戦いです。

義信の正室は今川義元の娘でした。当時の武田家は今川義元の死を受けて、駿河への侵攻を主張する派閥と、今川を援けて織田・徳川への牽制を行うべしと主張する派閥に分かれていました。そして駿河侵攻派のトップが信玄であり、親今川派のトップが義信だったのです。
ふたりの関係は急速に悪化します。

義信は能力も高く勇猛であったため、彼の後見人である飯富虎昌をはじめ一定の支持がありました。

信玄と義信の緊張関係が沸点に達したのは1565年のことです。信玄は、義信が謀叛を企てたとして、義信を甲府東光寺に幽閉します。同時に義信の配下である飯富虎昌らを処刑しました。義信はこの罪により廃嫡され、それから2年後に死去します。

この死の原因は明らかになっていません。義信の正室は離縁され、今川家に戻されます。信玄は4男の諏訪勝頼を嫡男に指名し、その勝頼には、織田信長の娘が嫁ぐことになりました。信玄が明確に今川家に対する方針を変換した瞬間です。

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