「武田信玄」家康を翻弄し不倶戴天の敵となる必然 ともにわが子を処断したリアリストの激突前夜

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信玄と謙信(景虎)の戦いは川中島で行われ、都合5回の直接対決がありました。

その4回目が1561年に行われた、名高い「川中島の戦い」です。

ともに多数の死傷者を出したこの戦いで、信玄は弟の信繁を失い自らも負傷します。その前年に、同盟相手であった今川義元が桶狭間で織田信長に討ちとられたこともあり、いったん信濃は落ち着きました。そして信玄は、義元亡きあとの今川領に目をつけるのです。

父親を追放した信玄

信玄の父である武田信虎は、甲斐の国の統一を果たした英傑です。

武田氏はそもそも甲斐の守護だったのですが、室町時代後期にはその力は衰えていました。しかも武田家はつねに内紛を抱えており、信虎は、まず武田家の統一から掛からねばなりませんでした。

1508年に武田家を統一すると、その勢いで甲斐全体の統一に突き進みます。信玄(晴信)は、この頃に正室・大井の方との間に生まれます。信虎は気性が荒く、逆らう者は容赦せずに手討ちにするといった粗暴な面もあったようです。

この信虎が、甲斐統一に向けて延々と続けた戦いに領民からも反発の声があがります。当時の戦では領民が兵として駆り出されるわけで、戦続きになると当然、畑仕事ができません。そのうえ戦の出費を賄うために過剰な年貢が取り立てられるわけですから、たまったものではありませんでした。

信玄が信虎を追放した理由として「弟の信繁を偏愛し信玄を廃嫡しようとした」という説がありますが、信虎の追放に信繁も加担していたところをみると、その説の可能性は低そうです。さらに甘利、板垣らの宿老たちもこぞってこの追放劇に参加しているので、実際は家臣団、息子たちを含めて総意での決起であり、信玄はその先頭に立ったのだと思われます。

信虎は娘婿である今川義元の駿河へ身一つで追放されました。甲斐を統一した英傑にしては寂しい転落です。一方、引き取った今川義元も困ったようで、信玄に信虎の隠居料(生活費)を請求したりしたようです。

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