豊田章男退任で回顧するランボルギーニの内幕 フェルッチョが20代の若者にバトンを渡した日

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そして何よりも世界中でこのエピソードが知られ、語り継がれているということは、誰か(=フェルッチョ)がそれを吹聴したわけであるし、プロモーションとしての目的を十分に果たしているのは間違いない。

そして1963年、並みならぬ苦労の末、アウトモビリ・ランボルギーニは操業を開始し、「350GT」「400GT」を顧客のもとへと送り出した。

しかし、この過程で、さすがのフェルッチョもこのビジネスがいかに難しいものであるかを理解したようである。当初、予定していたレースへの参戦など、とても手が足りるものではなかったし、資金も不足していた。

「ミウラ」のアッセンブリーライン(写真:Lamborghini)

そんな中、当時スポーツカー界において一世を風靡していたフォード「GT40」のようなミッドマウントエンジンのスポーツカーを作るというプロジェクトに、ランボルギーニは取り組んでいた。

これが名車ミウラ誕生の背景である。ミウラは美しいスタイリングも相まって、世界の富裕顧客から注文が殺到し、社会現象ともなった。これで「ランボルギーニの自動車事業も安泰か」と誰もが思ったはずだ。

「廃業 or 継承」の2択を迫る

そんな1967年の深夜、フェルッチョは自動車事業のマネジャーたちに突然、招集をかけた。とまどう皆に彼はこう語った。

「皆、よく聞いてくれ。これから話す2つの選択肢を選んでほしい。1つはランボルギーニの自動車事業を畳む。もう1つは、エンジニアのパオロ・スタンツァーニが社長となり、皆は彼をバックアップする。いずれにしても私は退任する。以上」

ミウラの成功も見え、ようやく事業が安定しようともいうべきこの時点で、フェルッチョはなぜこのような判断を行ったのだろうか。パオロはこう語った。

若き日のスタンツァーニ(右)(写真:Paolo Stanzani Archive)

「フェルッチョは、これから起こる自動車業界の未来を予測していました。事実、バラ色に広がっていた自動車業界も一気にしぼんでしまった……。排ガス規制や安全基準強化によるホモロゲーションへの多額の投資の必要性、そして突如世界を襲ったオイルショックなど、生き残りには大きな変革が必要となったのです。だからまだ20代であった私に期待をかけ、チーフエンジニアとCEOを兼務するように彼は命じたのです」

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