フェルッチョは自らのアイデアでトラクターを作り、チューニングしたクルマでミッレミリア(イタリアの長距離公道レース)にも参加したくらいであるから、そこそこ技術的素養もあった。だから絶えず壊れるフェラーリには実際、怒り心頭であったという。
あるとき彼は「より強化されたクラッチを採用すれば、フェラーリの使い勝手もよくなる」と考え、それをエンツォに進言しようとしたところ、門前払いをくらわされた。揚げ句の果てに「田舎のトラクター屋に何がわかるか」と斬り捨てられたからたまらない。
フェルッチョはすぐさま、ランボルギーニブランドのスポーツカービジネス発足を宣言し、打倒フェラーリたるスポーツカーを作るべく算段を始めた……というのが、ちまたで語られているランボルギーニ・スポーツカー誕生のエピソードである。
……という作りバナシ
筆者が何度もインタビューを行った、ランボルギーニ自動車ビジネスの中核であるパオロ・スタンツァーニは、この件を「彼一流のマーケティングのための作り話」だと断言する。
「爆発的な経済成長が続いていた当時のイタリアでは、いくつもの新興スポーツカーメーカーが誕生していました。その中で、注目されるにはどうしたらいいでしょうか。そう、スポーツカーのトップであるフェラーリにかこつけたハナシが最も関心を持たれるのです」
「だから、フェルッチョは“あのエンツォにたてつく”気概のある自動車メーカーという、メディアの喜びそうなストーリーを作ったのです。実際、彼がエンツォに会ったのはずっとあとのことですし……」
このエピソードの由来に諸説あるのも事実だ。フェルッチョの子息であるトニーノは「私は父が怒り心頭で帰ってきたときのことを今でも覚えている」と語っており、今となってはその真相はわからない。
しかし、少なくともフェルッチョは衝動的に自動車ビジネス参入を決断したのではなく、かなり冷静に事業計画を練ったという証拠は残っている。
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