「洋行帰り」という言葉があるが、それは、たとえ海外での生活が屈辱であったとしても、帰国すれば優越感に浸れるということを意味していた。確かに帰国するやいなや、日本でちやほやされるのでつい虚栄を張ってしまう。自国の文化を押し通すことが苦手な日本人は、中国人のように差別に耐えることができない。自分だけ特別視されるよう西欧に妥協していく。それが西欧崇拝と、根無し草の脱亜入欧をつくったともいえる。
島国日本は、ある意味天国である。国内では西欧人との遭遇がないことで、西欧人からの差別のない無色透明の西欧化が自然に受け入れられる。一方海外で差別された生活を経験したエリートにとって、西欧化は屈辱を意味する。
だからこそ、彼らの多くがやがて徹底した国粋主義やアジア主義に流れることになる。ただし、これはアジア主義を唱えながらも西欧化した優等生の日本人によるアジアの解放であり、非西欧的なアジア人による解放ではないことに大きな特徴がある。それは脱亜入欧を裏返しにしたものにすぎないのだ。
大東亜共栄圏や満洲国の構想、またアメリカのアジア人移民排斥に対する反対などアジア人からみて当然評価されうる議論も、結局日本人のみが白人と同等に扱われること、白人と同等になった日本人のみがアジアを解放することに主眼がある。肝心のアジアへの同化がそこから完全に抜け落ちているのだ。
西欧から「評価されている」という幻想
現在、アジアやアフリカといった地域の力が強まり、200年にわたって続いた西欧支配のレジームが変わりつつあるにもかかわらず、日本人が相も変わらずアジアを指導する雄であると考えているとしたら、それはかつてのアジア主義が陥った陥穽と変わるところはない。
近隣の韓国や中国を敵視し、西欧にべったりとくっつき、その西欧から見下されながらもそれをごまかし、西欧から評価されているのだという幻想に浸る――。日本は西欧並みであり、西欧化をいまだに普遍的真理だと考えている日本人は、愚かで孤独なアジア人だともいえる。
西欧人のド・ヴィルパンでさえ非西欧への接近を呼びかけているのに、日本の政治家の中にこのレジーム変化を理解しているものがどれだけいるのだろうか。白人中心主義のウクライナのナショナリストたちのことも知らず、すぐさまウクライナ支持を表明し、その移民を無条件に受け入れ、アジアであるアフガニスタンからの移民を拒否した日本は、いったいどこに行こうとしているのだろうか。
1940年の日独伊三国同盟のとき、黄色人種を蔑視する白人国家ナチスドイツと同盟国になったことを「一等国の証だ」と喜んだ日本人がいたという。それと同じことかもしれない。当時のままでは、日本はますますアジアで孤立し、世界から見放されていくのではないか。これは悲哀としかいいようがない。この悲哀を老人の戯言だと無視しないでほしいものだ。
こうした中で注目すべきは、インドネシアのジョコ・ウィドド大統領と、インドのジャイシャンカル外相だ。2人のアジアの政治家は、批判はあれ、こうした状況を理解し、欧米やアジアの国々に対し、したたかに渡り合っている。問題は外交的センスや語学力ではない。世界観をしっかりと持っているかどうかだ。
それを培うのは、しっかりとした歴史認識と歴史観の形成が必要だ。一刻も早く、世界観をしっかりと持つ若者を育成するべきだ。その役割こそ、日本の教育にある。教育への投資こそ、遠回りだが、最終的には日本の未来の鍵を握るものであることを主張したい。
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