脱亜入欧による近代化は、確かにアジアにおいて日本を西欧社会レベルに引き上げたという意味で大きな功績を残した。近代化は「すべてを西欧化する」という極端な政策のもと進められたのだが、その反面、自らの立ち位置であったアジアにおける立場を捨てざるをえなくなった。
入欧以前にアジアを切り捨てることに奔走していったことが、アジアへの無謀な侵略と拡大につながったのだが、それを「大東亜共栄圏」というアジア主義として取り繕ったところに、日本の西欧コンプレックスとアジア蔑視のジレンマが見て取れる。
明治大学専任講師で、ハーバード大学に勤める眞嶋亜有氏による『「肌色」の憂鬱 近代日本の人種体験』(中公叢書、2014年)という本がある。これは内村鑑三以来、留学を経験したエリート日本人の心の屈折と脱亜入欧精神との関係について書いた書物で、とても興味深い本だ。とくにその問題を、「肌の色」という脱却しようもない運命から見た点できわめてユニークである。
日本にある2つの世界
変な話だが、日本には2つの世界がある。1つは欧米という世界、もう1つはアジアという世界だ。前者は学ぶべき崇高な存在、後者は唾棄すべき野蛮な存在である。日本人離れした顔という言葉と、人間離れした顔という相対する言葉として2つの世界は存在する。
前者は美しいものをいい、それは西欧人に似ていることであり、後者はアジア人そのものである場合を意味する。こうした異常とも思える偏見を生み出したのが、脱亜入欧だったともいえる。とりわけそうしたコンプレックスを生み出した原因が留学した日本のエリートたちにあったという点が、日本社会を極めていびつにしているというのだ。
海外の大学を出ることは、日本のどの大学を出ることよりももてはやされ、英語などの西欧語ができるだけで尊敬される。それはとても不思議な現象だ。遠藤周作の作品に『白い人』『黄色い人』という作品がある。遠藤周作は、戦後すぐにフランスに留学し、黄色人種と白色人種の越えがたい壁を、身をもって体験した人物である。
多くの留学生は、日本を近代化させるために欧米へ向かったのだが、そこで待っていたのは黄色人種に対する差別だった。しかし、その差別について語ることはエリートとしての自分の誇りを否定することになる。だから帰国後、むしろ自分がいかに西欧で高く評価されたかを自慢げに語ることによって、そのトラウマを優越感に転化させた。
それによって、日本人のエリートは、あたかも西欧人のように扱われたのだという自負(翻ってアジア人への軽蔑)を持つことができた。しかしそれと同時に、その背後に筆舌しがたい差別のトラウマを心の奥底に刻み付け、それが日本人エリートの耐えられない劣等感を生み出しているというのだ。
「近代化」すなわち「西欧化」には、なるほど白色も黄色もない。しかし、それを学ぶ生身の人間は黄色い肌をもった人間である。日本人の肌の色、これはどうやっても白色になることはない。
中国人は、あえて西欧文明に同化することもなく、差別を受けながらも徹底して黄色い肌であることを押し通した。しかし日本人は黄色い肌を押し通すのではなく、自らを西欧人化しようと努めた。しかも同化を拒否した中国人のほうが勉強も語学もできたというのだから、彼らの怒りは欧米人に対してではなく同じ肌の色の中国人に向けられたというのだ。(前掲書)
日本人エリートは、留学できない一般の日本人とは違ってある意味不幸であったともいえる。日本では、肌の色が黄色くてもぬくぬくと差別されないで西欧化を楽しむことができる。
一方、能天気な国内の日本人に対して国を背負ったエリートは、海外では肌の色ゆえに差別され、拭いきれないトラウマを受けたのだ。そのトラウマの解消こそ「西欧で評価されたい」という願望と、「西欧への根拠のない憧れと依存症」を生み出したのだ。
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