忠臣蔵で人気の「赤穂浪士」を福沢諭吉が非難の訳 一方で福沢の「赤穂不義士論」には中傷の声も
福沢はその延長線上で、江戸時代の「切捨て御免」の「法」を非難しています。無礼があるからといって、庶民を私的に切り捨てるなどもってのほかというのです。「すべて一国の法はただ一政府にて施行すべきもの」というのが、福沢の考えなのでした。福沢が「私裁のもっともはなはだし」いとして、これを嫌ったのが「暗殺」でした。
私怨のための暗殺、銭を奪うための暗殺、政敵を憎んでの暗殺。特に政敵を憎んでの暗殺に対し、福沢はもの申します。政敵を殺した暗殺者は「私の見込みをもって他人の罪を裁決し、政府の権を犯して恣に人を殺し、これを恥じざるのみならずかえって得意の色」をなすと。
また、民衆も、その暗殺者が「天誅を行う」と主張すれば、彼は「報国の士」などといって拍手を送ると。暗殺が横行する世の中が「世間の幸福」を増すことはないと福沢は断言するのです。
幕末、「天誅」と称して、多くの殺人が行われました。福沢はそのことを同時代人としてよく知っていたからこそ、天誅という名の暗殺について、生理的な嫌悪感を持っていたのでしょう。
赤穂浪士を非難するのはなかなか勇気がいる
さて、福沢の説く「赤穂不義士論」ですが、別に福沢の専売特許ではなく、討入り直後から、福沢と同見解の主張は見られました。ですので、福沢の主張が特段、奇抜かというとそうではありません。しかし、今でもそうですが、赤穂浪士を礼賛する雰囲気が強いなか「赤穂浪士は義士ではない」「乱暴者だ」というのは、なかなか勇気がいることではないでしょうか。
『学問のすすめ』はベストセラーとなったので、その反響は凄まじいものがありました。特にこの第六編「国法の貴きを論ず」は「赤穂不義士論」として、批判や中傷に晒されたといいます。当時の人々の「赤穂義士」に対する熱い想いが、批判者の福沢に集中してしまったのです。今で言うと、人気スターを批判して、ネットで「炎上」してしまったようなものですね。
私は赤穂の隣の市、兵庫県相生市の出身ですので、赤穂浪士を「応援」してしまう気分にどうしてもなってしまうのですが、もちろん、福沢の言いたいこともわかります。
仇討ちや暗殺の許容は、その連鎖を呼び、社会を不幸にしていくのは言うまでもありませんし、認められることではありません。しかし、心のどこかで、困難にもめげず、死を覚悟して、主君の仇を討った赤穂浪士に共感を寄せてしまう自分がいることもまた事実なのです。
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