忠臣蔵で人気の「赤穂浪士」を福沢諭吉が非難の訳 一方で福沢の「赤穂不義士論」には中傷の声も

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赤穂浪士の討ち入りとは、江戸時代中期の元禄15年(1703)、旧赤穂藩士・大石内蔵助良雄以下、47人が、江戸本所松坂町の吉良上野介義央の邸内に乱入、義央の首級をあげて、旧藩主・浅野内匠頭長矩の仇をはらした事件のこと。

主君の仇を討った「忠臣」「義士」として、江戸時代から現代に至るまで、歌舞伎や時代劇のテーマに選ばれて民衆の人気を得てきました。が、福沢は彼らを「義士」と呼ぶことは「間違い」と言うのです。

なぜか?福沢曰く。この時の政府は「徳川」である。赤穂藩主・浅野長矩も、高家・吉良上野介も、浅野家の家来も「みな日本の国民」であり、政府の法に従いその保護を受けるものと「約束」したものであると。

そうであるのに、吉良の「無礼」に対し、浅野はこれを「政府」に訴えることを知らず、怒りにまかせて、斬りつけてしまった。その後「徳川政府」は、浅野へ切腹を申し付け、吉良には刑を加えず。福沢はこの徳川幕府の処断については「不正なる裁判」と書いています。

しかし「不正なる裁判」であったとしたら、浅野の家来たちは、なぜ、これを幕府に訴えなかったのか?と福沢は疑問を投げかけるのです。47人が幕府に訴え出れば、幕府というのは「暴政府」なので、その訴訟を取り上げず、訴えた者たちを捕縛し、殺すかもしれない。

「私裁」は慎まなければいけない

しかし、たとえ、1人が殺されても、代わりが訴え出て、殺され、また代わりが出て殺され、47人の家来が「理を訴えて」いけば、どのような「悪政府」でもついには、考えを変え、吉良を裁くのではないか。これが福沢の赤穂浪士への考え方です。

福沢は、前述のように行動してこそ彼らを「義士」というべきなのに、「国民の地位」にいながら「国法の重き」を顧みず、吉良を殺害したのは「私に人の罪を裁決したるもの」と浪士たちを非難。

幕府が彼ら「乱暴人」を処刑したからよかったものの、もしこれを許していたら、吉良一族が敵討ちと称して赤穂の家来を殺していたろう、敵討ちが際限なく続いていただろうと福沢は予想しています。そしてこれは「無政無法の世の中」だと福沢は主張しているのです。だから「私裁」は慎まなければいけないというのです。

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