それからも複数のレースに出させていただいて、少しずつ結果を残せるようになり、 走りを通して次第に気持ちも前向きになっていきました。監督が言うとおり、「試合の失敗は試合でしか取り返せない」のだと実感しました。
4年生のときは、箱根直前にけがをしてしまい、メンバー発表の前日に「今回はけがで出場は厳しいです。そしてもう1年やらせてください」とお願いしました。そのときは、卒業してからも実業団で競技を続けたいと真剣に考えていたんです。 留年して登録上は4年、事実上の「5年生」として再び5区を走りましたが、結果は区間17位。再びの挫折です。
「竹石ブレーキ再び」と言われ、メンバーにも本当に面目ない気持ちでいっぱいでした。ただ、そのときは3年生のときとは違って、落ち込みはしても絶望はしませんでした。もちろん、チームメイトや監督に対して、情けない走りをしてしまった申し訳なさは強くあります。でも、同時にある種のやり切った感もありました。
その心境の変化の理由は、同期の言葉にもあるように思います。同期が卒業する送別会で、中村友哉君が言ってくれたんです。「竹石が3年でブレーキしてしまったとき、声を掛けられなかったのが悔しかった。それは自分が駅伝を走れていないから説得力がなかったからだ。」と。
実業団に進まなかった理由
僕は、3年のブレーキで落ち込んでいたけれど、部の中には箱根やほかの駅伝のメンバーに選ばれなかった選手たちもたくさんいます。むしろ、僕は走ることができて幸せだったんだということに気づかされました。結果と周りの目を気にして1人で絶望していた自分が、とても情けなく感じられたんです。
5年目の箱根が終わった後、監督からは「これが箱根駅伝。わからないものだな」 という感じで声を掛けられました。「この悔しさを晴らせるのは、もう社会人の舞台しかない。ここ一番で力を発揮できなかった。その理由が何かを考え、それを糧にして頑張ってほしい」とも言われました。
実業団で走りたいという気持ちはありましたが、最後に箱根駅伝を走れて、そのときはもう陸上でやり残したことはないという晴れやかな気持ちに満ちあふれていました。ですから新しいステージにも前向きに進むことができたのだと思います。
監督は「明るく元気に前向きに」がモットーです。社会人になってもうまくいかないことはたくさんありますが、あれほどの挫折はなかなかありません。青学での5年間があったおかげで、社会人になってからのストレスなどにも対応できるようになったと思います。
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