評価割れる「北条義時」勝海舟が尊敬した"深い訳" 「国家の為に尽くした」と、勝海舟は高く評価
勝海舟は、貧しい生い立ちにもかかわらず、刻苦勉励し、徳川幕府の要職にまで上り詰め、西郷隆盛との談判で江戸の危難を救ったことで知られています。明治維新後も海軍卿に就任するなど新政府に仕えますが、そんな彼の談話を筆録したのが『氷川清話』です。そこには、海舟の前半生が語られたり、人生観や政治観、外交などが縦横に述べられています。
しかし、それだけではなく、歴史上の人物や、同じ時代を生きた人間への評価というものも、海舟はしているのです。そしてその中には、あの北条義時も含まれています。
北条義時と聞いても、数年前までは「誰?」という状態だったかもしれませんが、今では大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公として、その名は多くの人に知れ渡りました。
義時は伊豆国の豪族・北条時政の子として生まれ、普通ならば、同地の豪族として人生を終えるはずだったものが、姉の政子が源頼朝に嫁いだことにより、人生は激変。頼朝の「親衛隊」の一員となったばかりか、平家方討伐のため西国にも出陣。頼朝死去後は、宿老の1人として、権力の一角に食い込みます。そして時政と共に、ほかの有力御家人を次々と蹴落としていき、北条氏躍進の基礎を築いていくのです。
勝海舟「義時は国の為に尽くした」
そんな義時を約600年後に海舟はどう評しているのか? 海舟は『氷川清話』の中で言います。「北条義時は、国の為には、不忠の名をあまんじて受けた。すなわち自分の身を犠牲にして、国家の為に尽くしたのだ」と。つまり、大きく評価しているのです。
しかし、海舟が言う(近代国家的な)「国」という概念は、鎌倉時代には当然、ありません。海舟は義時は「国」のために「不忠」の汚名を受けたと主張していますが、これは具体的には何を指しているのでしょうか?
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