評価割れる「北条義時」勝海舟が尊敬した"深い訳" 「国家の為に尽くした」と、勝海舟は高く評価
慶応4年(1868)1月、鳥羽伏見の戦いで、旧幕府軍は新政府軍に敗北。旧幕府勢力は朝敵として、新政府軍の討伐を受けることになるのです(戊辰戦争)。が、15代将軍だった徳川慶喜は、海舟らに事態収拾を任せ、自らは謹慎します。義時は、ここで立ち向かったわけですが、海舟は違いました。
ご存じのように、江戸無血開城を成し遂げ、江戸の人々を戦火から救ったのでした。「幕府瓦解の時には、せめて義時に嗤われないようにと、幾度も心を引き締めたことがあった」と海舟は言いますが、これはどういう意味でしょう。
海舟の義時評は短文ですので、その全貌を窺うことはできませんが、海舟は義時を「国の為」に尽くした人と評価していたことは、前述の評言からも明らかです。
よって、海舟も、つねに「国の為」にどのように行動するかということを念頭においていた。それに外れるようなことをして、政策・指針を誤り「義時に嗤われ」るようなことにはなりたくないと気持ちを引き締めていたのでしょう。
「後生に名を残したい」は小さな考え
海舟は『氷川清話』の最後に「世間の人はややもすると、芳を千載に遺すとか、臭を万世に流すとかいって、それを出処進退の標準にするが、そんなけちな了見で何ができるものか。男児、世に処する、ただ誠意正心をもって現在に応ずるだけのことさ。あてにもならない後世の歴史が、狂といおうが、賊といおうが、そんなことはかまうものか。要するに処世の秘訣は誠の一字だ」と語っています。
つまり、世間の人は、後世に名を残したいという想いを出処進退の基準にすることが多いが、そのような小さな考えでは、大仕事を成し遂げることはできない。「誠意正心」の精神でもって、事に対処することが重要であり、後世の者がどうこう言おうが、そんなことはどうでも良い。「誠」の心でもって、世を渡っていけと海舟は諭してくれているのです。
海舟はおそらく、北条義時もまた「誠意正心」の精神で国難に対処したと思っていたはずです。
勝海舟と北条義時。一見、結び付きがなさそうな両者ですが、実は精神の深いところで接点を持っていたのです。もちろん、それは海舟の思い込みであり、泉下の義時は「買い被りすぎだ」「国の為と思ってやったわけではない」と笑っているかもしれませんが。
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