さらに、人々を動かすことははるかに難しい問題がある。なぜなら、政策が作用する対象の側は、前出のように、国民や市場という概念ではなく、個々の人間の、経済主体の集まりだからである。
彼ら彼女らはスタティックではない、つまりじっとしているわけではない。ダイナミックなのである。そして、動くといっても、刺激に条件反射するわけではない。また、感じて動き、考えて動くものだ。
さらに、ほかの人間が動いたのに釣られて動き、相互にうごめき、群集となる。群集は、予測できないカオス的に動くこともあれば、集団として、個々の動きの合計を超えた群集パワーを発揮することもある。それはもう収拾がつかない。先日の韓国の事故の例を持ち出すまでもなく、群集はときとしてコントロール不能になる。群集自身にさえも、だ。
なぜ「庭先掃除癖」は治らないのか
もうひとつ重要な、官僚的な「悪い癖」もある。それは「庭先掃除癖」だ。
たとえば、日銀には「物価の安定」という重要な任務がある。すると、これを何よりも優先する。そして、物価さえ安定していればよいと考えがちになる。
それ自体は任務を忠実に遂行しているから望ましい官僚像、セントラルバンカー像である。これが悪影響をもたらすのは、物価の安定に集中しすぎて理性的でなくなり、例えば為替が大きく動いても二の次になりがちになるということだ。つまり、自分に与えられた目標達成に忠実なあまり、他への影響をあまり考慮しなくなってしまうことだ。
しかし、言い分もある。「われわれの持ち分は物価である。為替は市場および財務省の持ち分である。だから、むしろ為替のことを考慮して、物価に対するアプローチがぶれることのほうが問題だ。為替に影響が出ているのは知っているが、むしろ、われわれがそれを考慮するのは、職務忠実義務違反である。ましてや、為替を是正しようなどとすることは、セントラルバンカーののりを越えた、分不相応で傲慢である」ということだ。
これは、財務官僚に言わせると「庭先掃除だけするな」、ということである。極端に言えば、自分の庭先だけ塵ひとつなくきれいにするが、すべての落ち葉は隣の家の前に山積みとなっている。「お前はあほか」ということだ。
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