なぜ官僚や学者の政策はいつも失敗ばかりなのか アベノマスクから岸田政権の総合経済対策まで

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しかし、ガラガラポン、という言葉は象徴的である。なぜなら、日本人、日本社会が、建設的に社会を作り上げる、という必要性、難しさを認識していないことを表しているからだ。現状行き詰まっている。この行き詰まりをとにかく打破すればなんとかなる、そう思っていることを示している。

しかし、実際には、それはただの愚痴だ。愚痴では何も変わらない。そして、社会には必ず既存の制度があり、既存のシステムがあり、それに応じて、人々は生活している、われわれ全員が既得権益者なのだ。

「社会のデザイナー不在」が日本の最大の問題

結局のところ、社会の設計。社会のデザイナー。これが日本にいないことが最大の問題なのだ。

社会システムをデザインするということが、社会を動かすためには、必要で、これは、要は試行錯誤の連続である。その中で、社会全体への影響をよく観察しながら、よりよい循環を作り出すキーとなる要素を見つけ出し、それを中心として、その周りの要素に修正を加えながら、目的に近づけていくのだ。

いまやこのような社会デザイナーが日本に存在しなくなってしまった。戦後、これは官僚の最大の仕事だった。そして、そのデザイナーのアドバイスを受け、それを実行する力強い政治家がいた。いまやどちらもいなくなった。

このデザインの骨格が出来上がり、社会の中で動いていく中で、環境変化に応じて修正が必要となる。その中で関係者の調整が必要になる。1945年から1955年まではデザイナーが主役、1960年以降は、調整役が主役となった。

しかし、いまや、政治家たちはこの調整もできなくなった。先日の総合経済対策も、「財務省が勝手に25兆円でまとめた」と自民党議員がいちゃもんをつけ、「29兆円に俺がしてやった、俺が押し込んだ」という手柄を自慢している世の中である。調整ではなく、自分の手柄、それも、スケープゴートの財務省をやり込めた、ということが手柄になり、実際に経済がよくなるかどうかはどうでもいい、そういう政治・政策業界になってしまったのである。政策の目的の不在である。

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