そして、財務官僚はさらにすすむ。「自分たちが考える日本経済の理想像に近づけるために、すべての仕事を自分にやらせてほしい。常に日本全体、そして日本の未来のこと、すべてを包括的に考えているのは財務省だけだ。だから全部財務省にやらせろ」、ということになる。
もうこうなると「傲慢で鼻持ちならないエリート主義」、ということになる。たとえ理想像こそ正しく、それを実現できる力を持っていたとしても、人々は反発し、彼ら彼女らには何もやらせないようにしようとする。
現実的には、このような財務官僚はもはや存在しない。20世紀の大蔵省時代、しかも例外的に一部見られた人物像だ。21世紀の現在、ほとんどの官僚は「庭先掃除マシーン」である。今は風圧で落ち葉を掃除するものが主流だか、ああいう感じで吹き飛ばして、その後、飛ばした落ち葉を箒で集めないのである。
学者も自分の専門にひきつけすぎ
実は、学者もまったく同じである。「学問の蛸壺化(サイロ化)」は言われて久しいが、学者の政策提言も同じ過ちに陥っている。すべて自分の専門にひきつける。たとえば、コロナ感染防止の専門家は経済の影響はまったく考えず、環境問題の専門家は持続性を主張しながら、経済の持続性を考えないといったケースも少なくない。
少しでもよく見ればすぐにわかるはずだが、経済の各分野だと素人にはわかりづらい。行動経済学者は、自発的に行動することを促す「ナッジ」という政策を薦める。だが、現場ではもっと素朴で力強い行動への影響、たとえば、ペーパーワークが面倒くさい、客も上司も行動をせかす、など他愛もない、しかし、強力な力に妨害される。だから、ナッジでは間に合わない。
もっと厄介なのは、EBPM(エビデンス・ベースド・ポリシー・メイキング)を強硬に主張する人々だ。確かに、雰囲気や感覚だけで政策を行うのは良くない。だが、一方でエビデンス(データに基づいた証拠)だかなんだか知らないが、データ、データ、分析、分析、エビエンス、と叫ばれると、実際はデータをとりやすい分野の政策ばかりが優先されて行われることになる。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら