いずれの詩も、決して晦渋(かいじゅう)ではないが、含蓄の深い、滋味掬(きく)すべきものである。衒学(げんがく)性とは対極にある、真率にして至純な作品ばかりで、屈託に満ちた気鬱な心の深部にも沁み渡っていく。もちろん、詩語自体は平明であっても、瞥読(べつどく)してすべてが理解できるわけではなく、一般抽象性と不確定性の高さをその特徴とする詩というジャンルであってみればこそ、読み手の個人史や言語感覚にも照らしつつ、繰り返し読み、熟思する姿勢が要求される。
ことばには〈お守りのことば〉と〈呪いのことば〉がある。そして、〈お守りのことば〉をひとつでも多く心に秘めていれば、人は必ずやタフになれる。筆者はかねてからそう信じてきた。本書には、そうした〈お守り〉となるような、背誦(はいしょう)に価する作品が豊富に収録されており、その詞華群は、もしも向後、言語に絶するような苛烈な事態に際会し、激越な感情に襲われたとき、きっと我々を優しく慰藉(いしゃ)し、力強く援護してくれるにちがいない。
傷ついた心を癒やす詩の力
なぜ詩を読むのか――かかる問いは夙昔(しゅくせき)から頻回に問われてきたが、本書を読むと、そのひとつの解が仄見(ほのみ)えてくる。詩人の荒川洋治は「文学は実学」だと道破し、「この世をふかく、ゆたかに生きたい」という願望を叶えてくれるところに、文学の職能を見出したが(『文学は実学である』、みすず書房)、本書が暗示する答えもそれとやや相通ずる部分がある。
人間が本態的に抱える悲哀(パトス)や、不可避的に逢着する不条理、生きる意欲が払底するような煉獄(れんごく)的状況。詩人は、こうした個人的受苦を言語(ロゴス)によって普遍的なものへと昇華させ、読者を現実から真実の領域へと嚮導(きょうどう)してくれる。リュ・シファの言辞を借りれば、詩とは、魂を世界とつなぐ「魂の糧」である。
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