維新志士を多く育成「吉田松陰」現代にも響く名言 高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋などが薫陶を受けた

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困苦を経て「俗物」とならないためには、才能が廃れやすいことを理解したうえで、発奮し、努力を重ねるしかないというのです。すべては自分次第ということでしょう。やるだけやったら、後はジタバタしないということも、松陰は『孟子』から学んでいます。

『孟子』の中に「自分の命が短いか長いかを疑い動揺したりせず、ただ、身を修めて、これを俟つ」との一文がありますが、松陰は「自分の心力の及ぶ限りは尽くして、それから先のことは天命に任せるのである」と感想を記しています。

長寿か短命かは、自分の力ではどうしようもないこと。が、身を修めることは自分でできる。だから「この浮世は儚い」「もう年だし、今から挑戦するのも」などと言うのは、松陰からすれば「怠惰」で「天から与えられた本性を全うしていない」ことになるのです。

人生は「旅館」のようなもの

松陰は、以下のような面白い例え話をしています。

「すべて人は、1日この世にいれば、その1日の食事をとり、その1日衣服をまとい、その1日家に住まう。どうして1日の学問、1日の修行は励まないでいいという道理があろうか。

例えてみれば、旅館のようなものだ。茶屋に入り休み、宿屋に泊まる時は、それぞれ、茶代や宿代を払う。天地は万物の旅宿である。衣食住はじめ天地万物の恩を受けながら、その恩を返そうとしないのは、実に天地の盗人、万物の虫というべきもの。これは茶代・宿代を払わずに、旅館を出るようなもので、何と恐ろしいことか」

人生は、旅館のようなもの。そして衣食住のすべてにおいて、天地の恩恵を受けている。そうであるのに、何も学ばず、身を修めず、怠惰に過ごすのは「盗人」のようなもの、と松陰は言うのです。

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