秀吉は利休に命じて大阪城内に茶室をつくらせたほか、人々が驚嘆するようなさまざまな出来事を巻き起こしています。1585年に、利休とともに宮中に参内して正親町(おおぎまち)天皇に献茶をおこなうと、同じ年、金箔を貼り巡らせた黄金の茶室をつくりました。
これは組み立て式の小さな茶室で、木製の壁や柱などに金箔をほどこし、茶釜や茶道具一式まで金でそろえたものです。秀吉はこれを、京都御所をはじめさまざまな場所に運んで重要人物をもてなしました。
さらに各地の大名や豪商を一堂に集め「大阪城中大茶会」を開いたり、町民や農民までを招いた荒唐無稽な大規模イベント、「北野大茶会」を催すなどしています。
「北野大茶会」は、「高名な茶人や茶の湯好きを一堂に集結させ、名物茶器をかき集めた大茶会を催そう」という秀吉の思いつきからおこなわれました。北野の開催場所には4キロ四方にわたって800軒ともいわれる趣向を凝らした茶屋が建てられたといいます。
当日、秀吉は午前4時に駆けつけ、550人あまりにおよぶ茶人と、数えきれないほどの見物人で大盛況となりました。秀吉はこの日、貴賤かまわず人々に声をかけて上機嫌に過ごし、これによって茶の湯を庶民に親しませることにもつながったといわれています。
秀吉は合戦場にも利休をともない、お茶をたてさせていました。また小牧・長久手の戦いのときには、合戦の最中にもかかわらず、利休のお茶を飲むため城に帰ったと伝えられています。このとき秀吉は「長い戦の鬱気(うっき:気が晴れず重苦しい状態)を散じたいので、茶の湯をつかまつれ」と命じて茶会を開かせています。
茶道を求め熱中した武士
初代将軍、徳川家康も茶道を好み、将軍の地位につく以前から千利休、古田織部、千宗旦らの茶会にしばしば参加していたことが知られています。
家康は茶会を好み、茶器の収集にも熱を上げ、晩年に過ごした駿河の駿府城では、美味しいお茶を飲むため、山間に「お茶壺屋敷(お茶蔵)」まで建てていました。これは夏でも冷涼な環境に置くことで、お茶がじっくりと熟成され、芳醇な味わいになるためです。
このように武士たちは、さまざまな理由で茶道を求め熱中していきました。
明日をも知れぬ状況の中、疲弊した心を癒やし、勇壮果敢な闘志を湧き起こそうとお茶を求めた者もいれば、頂点に立つ者にふさわしい人格を養うため茶道をたしなむ者もいました。また豪華で美しい茶道具に見せられ、コレクションに熱を上げた武士もいれば、自身の権勢を見せつけるために、大規模な茶会を催す武士もありました。
そしてこのような状況の中、茶道は教養、豊かさ、格式などの象徴にもなり、茶道に秀でているかどうかが、その人物の武士としての評価につながるようになりました。3代将軍、家光が定めた制度の参勤交代によって全国に伝えられ、茶道は武士たちの「必須の教養」となっていったのです。
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