なぜ戦国時代のエリートらは茶道に熱狂したのか 政治に利用、武士としての評価にもつながった

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石州流では、正座の基本姿勢をとる際、ひざの上で軽く握りこぶしをつくり、その中に親指を隠すようにしまいます。これは武士として親指を守るための作法です。親指を失うと、刀を取って戦うことができません。武士にとっては命にかかわる重要な部位なのです。

またお辞儀をするときは、頭を深々と下げるのではなく、浅い角度で頭を下げます。これも同じように、いついかなるときも気を抜かず、周囲の気配に注意を払っていた武士の習慣の名残りとされています。

茶道と密接なかかわりをもった代表的な武将としては、まず織田信長の名が挙げられます。信長は子どもの頃から型破りな人物であったことが知られていますが、その一方で文化的な家庭に生まれ、和歌や舞をたしなんだり、もともと公家の遊びであった蹴鞠(けまり)を楽しんだりする一面もありました。

そんな信長が茶道に熱中したきっかけは1568年、足利義昭とともに京都に入り、室町幕府の再興を果たした際、武士や豪商から「名物」と呼ばれるブランドものの茶器を数々、献上されたことだといわれています。

信長は熱心に茶の湯をたしなむようになると同時に、名物の収集に夢中になります。そして次々と領地を拡大する過程で、服従させた相手にその証として名物の茶器を献上させたり、強制的に買い上げるなどの「名物狩り」をおこなったのです。

茶道と政治の密接な関係

そして茶会を開いてはこれらの茶器を披露し、自らの権力を誇示しました。また家臣たちに茶会を禁じ、その一方で特別な手柄を立てた者のみに褒美として茶器を与え、茶会の開催を許しました。こうして武士たちの間で、名物の茶器や茶会の開催が特別な価値を持つことになったのです。

このように茶道を政治に利用するやり方は、後に豊臣秀吉から「御茶湯御政道(おんちゃゆごせいどう)」と呼ばれることになりました。また信長はこの間、千利休らを「茶堂(茶頭)」という役職に据え、茶会や茶器の管理、教育など茶道に関する仕事をおこなわせましたが、残念ながら信長によって茶会が「名物鑑賞の場」「権力誇示の場」となってしまったのも事実です。

信長自身の最期も、お茶と無縁ではありません。信長は出陣に先立って38点の名物茶器を安土城から持ち出し、少数の従者だけで京都の本能寺に入り、「本能寺の変」の前日には茶会を開いていました。そして翌未明、明智光秀率いる大群に急襲され、最後には火を放って自害しています。信長が集めた格別の名物も、2点を除いてこのとき焼失しています。

信長に次いで天下人となった個性派の怪人物、豊臣秀吉も千利休を茶堂に据え、茶道を政治に巧みに利用しています。

秀吉は信長以上に利休を重用して、お茶に関してだけでなく、さまざまなことを相談する相手として非常に頼りにしていました。武将、大友宗麟(おおともそうりん)は大坂城を訪れたとき、秀吉の弟で右腕を務めていた豊臣秀長から「公儀のことは私に、内々のことは利休に(相談するように)」と告げられています。

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