きな臭い男?「三浦義村」将軍暗殺"黒幕説"の深層 3代将軍・源実朝殺害の裏で糸を引いていたのか

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その後も、『吾妻鏡』には義村や長江が罰せられたという記述もない。罰せられるどころか「トラブル」があった同月には、義村は侍所の次官に選ばれている。それが、いきなり半年も経って、ペナルティーを科されるのは少し解せない。

では、義村は暗殺事件当日、なぜ姿を見せなかったのか。先ほどの左大将直衣始の儀の際も「病気になって出席できない」という者もいたように、直前に病になったか(仮病かもしれないが)、あるいは建保6(1218)年9月に、鶴岡八幡宮において、義村の息子・駒若丸が宿直の者に暴行し、謹慎となったことを考慮して、あえて鶴岡八幡宮における儀式に参加しなかったということも考えられないだろうか。

源実朝暗殺の裏にいたことを示す史料はない

義村という武将は、梶原景時の変(1199年)や畠山重忠の乱(1205年)、和田義盛による和田合戦(1213年)のときにも重要な役割を果たしていたとする説もある。前述の坂井氏は義村が「そもそも義時や北条氏を倒すのであれば、和田合戦の時に同族の和田義盛に味方すればよかったはずである」(前掲書)と主張される(和田義盛は三浦一族であった)。

しかし、和田合戦の時、義村は初めから義時方に付いていたわけではない。「三浦義村と弟の胤義は、最初は義盛と結託して北門を守るように、誓いの文章(起請文)を書いていた」(『吾妻鏡』)のである。それが急に変心して、義時に義盛の動静を伝える、つまり義盛を裏切ったのだ。おそらく義村は、将軍が義時側にいるのを見て、北条氏に利があると判断、同族を裏切ったと思われる。

もし、これが逆ならば、義村はそのまま義盛側にいた可能性が高い。そうしたことを考えたとき、義村がつねに北条側に心を寄せ、野心も何もなかったとする見解には少し違和感を覚える。

とはいえ、義村が実朝暗殺の黒幕かといえば、そうとは即断できない。義村が裏にいたことを示す史料がないからだ。「義村黒幕説」は闇に包まれているといえようが、はっきりした史料がないからには、義村を黒幕と断定するのは危険であろう。

濱田 浩一郎 歴史学者、作家、評論家

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はまだ こういちろう / Koichiro Hamada

1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『あの名将たちの狂気の謎』(KADOKAWA)、『北条義時』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)など著書多数

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