きな臭い男?「三浦義村」将軍暗殺"黒幕説"の深層 3代将軍・源実朝殺害の裏で糸を引いていたのか

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公暁との接点は妻だけではない。義村の子も公暁と関わりを持っていた。公暁は鎌倉・鶴岡八幡宮の別当だったのだが、義村の子・駒若丸は公暁の門弟であった。こうした義村と公暁をめぐる縁から、義村が公暁の背後にいて、実朝を暗殺させたとする説があるのだ。この場合、義村の狙いは、実朝というよりは、北条義時にあったとする。宿敵の北条氏をこの機会に葬って、自らの権勢を増大させたいと考えたという。

しかし、義時は公暁らに殺されることはなかった。公暁は、源仲章を義時と間違えて殺してしまったといわれる(また『吾妻鏡』によると、義時は暗殺事件発生の直前に気分が悪くなり現場から退出。難を逃れたとの考えもある)。

義村が事件当日、実朝の右大臣拝賀の場に姿を見せていないことも、怪しいとする見解もある。公暁らには実朝と義時を殺させ、自らは義時の邸を襲撃する準備を整えていたというのだ。

義村は自宅待機のペナルティーを科されていた?

これについては反論もある。例えば、坂井孝一・創価大学教授は以下のように主張している。

「義村が拝賀の場に姿をみせていないのは、先にみたように、左大将直衣始(のうしはじめ)の儀において、同族の年長者、長江明義とトラブルを起こし、行列の出発を遅らせるという失態を犯していたからだと考える。右大臣拝賀でこのようなことがあってはならない。そこで、実朝が義村に自宅待機のペナルティーを科したのである。

第一、義村ほどの有力者が拝賀の行列に加えられなかった、あるいは勝手に参列しなかったなどということは通常ではありえない。右大臣にして将軍である実朝の意向が働いていたとみる以外にない」(『源氏将軍断絶 なぜ頼朝の血は三代で途絶えたか』[PHP新書])

興味深くうなずくべき見解であるが、若干の疑問は残る。義村がトラブルを起こしたのは建保6(1218)年7月。実朝暗殺の半年も前だ。

半年も経ってからわざわざペナルティーを科すのかということ。トラブルといっても、乱闘事件などではなく、行列のなかでどちらが左へ並ぶか、右へ並ぶかの問題で出発時間が遅延したという程度だ。しかもそのトラブルを知った将軍実朝は怒るどころか「譲り合いの精神が美しい。感動した」と義村らに伝えているのである(『吾妻鏡』)。

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