稲盛和夫「常に謙虚」貫いた偉大なる思想家の足跡 「経営の神様」はジェントルマンであり俗人だった

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人の懐に入るといえば、相手を褒めて気分を良くさせる行為と捉えられるかもしれないが、稲盛氏の場合は、口先だけではなく、誠意を持って自身の哲学を人の心に浸透させる。

稲盛氏が創業まもない昭和30年代から続けられている、「コンパ」と呼ばれる鍋をつつきながら本音を話し合う京セラ流飲み会も、人の懐に入る実践の1つである。若者のアルコール離れも手伝い、上司や職場仲間と飲む、いわゆる「飲みニケーション」を嫌う若い人が増えた、と言われているが、それは、飲み会を教育の場と勘違いし、上司が部下に説教して苦痛な場と化してしまうからだ。

この点、京セラでは、まずは、社員に心を開いて本音を語ってもらい、それに上司が「そういう考えだったのか」「そのようなことで悩んでいたのか」など、相手の気持ちを引き出す深いコミュニケーションを心がけている。

もともと、どもりがちだった稲盛氏自身が、酒が入るとすらすらと話せることに気づいた。トップとしての思いを、砕けた表現と、親しみを感じる口調で話すことにより、社員に自分の思いが的確に伝わる、そして、社員も言いたいことを言える雰囲気をつくれると認識した。「コンパ」は、シャイな稲盛氏だけでなく、各組織のリーダーと現場の社員の信頼関係を強固にするうえで魔法の杖になった。

「外の世界」を志向した稲盛氏

この魔法の杖は、京セラ社内だけでなく、KDDIの前身である第二電電(DDI)を設立するとき、NTTに独占されていた通信市場に風穴を開けるために抵抗勢力を説得するうえで役立った。さらに、経営破綻した日本航空(JAL)を再生する際も、官僚組織化していた社員の心、社風を変えるうえで奏功した。

京セラの経営にとどまらず、稲盛氏は通信、航空、さらには、仏教界や京都市、といった「外の世界」に入り、新市場創造と改革に積極的に取り組んできた。

京都は「ベンチャーの街」であると言われる。小さな零細企業が短期間で急成長し、グローバル企業になった例は少なくない。それらの創業者には意外にも「外の人」が多い。「外の人」とは京都市以外の土地から京都に住み着いた人のみを意味しているわけではない。京都市は中心部を指す「洛中(中)」とその周辺の「洛外(外)」から成る。洛外育ちは「外の人」扱いされる。本物の「京都人」は「洛中育ち」に限る、といった認識がある。

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