稲盛和夫「常に謙虚」貫いた偉大なる思想家の足跡 「経営の神様」はジェントルマンであり俗人だった

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塚本氏の若い頃の写真を見ると、往年の映画俳優を思い起こさせるほどの二枚目だった。扱う製品も女性下着であることから、どちらかと言えば「軟」のイメージを持ちがちだが、本質は、「硬」そのもの。インパール作戦を生き残ってきた生命力が経営に反映されているような人だった。

稲盛氏は戦場へこそ行かなかったが、終戦直前の1945年(昭和20年)8月、13歳のとき、空襲で父が経営していた印刷工場を焼失してしまった。少年時代に結核で入院し、生死の淵をさまよった。(旧制)中学の受験は2回失敗。第一志望にしていた大阪大学医学部の入試も不合格になった。

塚本氏は戦争で生き残った自分と重ね合わせていたのか、苦労人の稲盛氏を若い頃から可愛がっていた。稲盛氏は「(社交的な)塚本さんは、(シャイな)私とはまったく違うタイプ」と見ていたようだ。ところが、塚本氏は「私は(後輩の)稲盛さんを尊敬している」と敬意を表していた。

塚本氏は稲盛氏のサポーターだった。

「塚本さんは、何か集まりがあると、必ず声をかけてくれました。そのときも、私の性格を気遣って『こんな集まりは好きではないかもしれないが、一応、誘ってみたよ。気にしないでいい。興味あれば来てくれ』と。その場に顔を出すと、塚本さんは、普段会えないような人たちに私を紹介してくれました」

京都商工会議所会頭を引き継ぐ

1994年(平成6年)の暮れ、当時、京都商工会議所の会頭を務めていた塚本氏から「重要な話があるのだが……」と突然呼び出された。「私の後継者として、京都商工会議所会頭を引き受けてもらえないか」と懇願されたのだ。社交性に欠ける性格を自認していた稲盛氏は、経済団体の長など自分に務まるわけがない、と思い込んでいたので就任を当初は固辞し続けた。

しかし、地域経済、社会への貢献の重要性を熱っぽく語り説得する塚本氏の熱意に押され、とうとう稲盛氏は重責を引き受けることになった。就任後は、1980年代以来、古都税や景観を巡って対立していた京都市と京都仏教会の仲介役を務め、1999年(平成11年)5月、和解に至った。稲盛氏は1996年(平成8年)、65歳になったのを機に仏門に入る。翌年9月に臨済宗妙心寺派の円福寺(京都府八幡市)で得度した。結果論だが、この相手の懐に入っていく姿勢が、仏教界に僧侶の心に響いたのではないだろうか。

この手法は、「京セラ フィロソフィー」を社員に浸透させるうえでも役立った。

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