稲盛和夫「常に謙虚」貫いた偉大なる思想家の足跡 「経営の神様」はジェントルマンであり俗人だった

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「経営の神様」と呼ばれる人の俗人的エピソードは興味深い。しかし、稲盛氏の言葉、行動には、「経営の精神」が含まれていることを見逃してはならない。原点回帰への象徴として丼物をあげ、比喩的に表現しているのだ。

もう1つ、俗人としての稲盛氏の魅力を知るうえで避けて通れないのが奥さん(朝子夫人)との関係だ。奥さんに話が及ぶと、稲盛氏は本当に嬉しそうな表情になった。愛している、好きだ、といった歌謡曲やJ-POPの歌詞に出てきそうな言葉で奥さんとの関係を表現しない。「あんな素晴らしい奥さんはいない」とストレートながらも最大の賛辞である。稲盛氏を支えてきた糟糠の妻として敬意を表していた。

稲盛氏と朝子さんは、京セラを創業する前に勤めていた松風工業で知り合った。寮生活をしていた稲盛氏は自炊をしていたのだが、研究の時間を割かれたくないと考え、会社(研究室)に寝泊まりすることにした。鍋、釜などの自炊道具を研究室に持ち込み料理を試みたものの、結果的にボロボロの食生活に陥ってしまった。さらに、研究に集中するあまり、料理どころではなくなる。

質素な披露宴から「経営の神様」とその妻が誕生

そんなとき、研究室に弁当が置かれるようになった。誰が作り、持ってきてくれたのかわからない。誰も名乗り出ない。後でわかったのだが、朝子さんが手作り弁当を毎日届けていたのだ。

それは、朝子さんの稲盛氏へのラブコールではないか、と今どきの人は勘ぐりがちだが、稲盛氏は「あまりにもひどい食生活だったので、同情してくれただけです」とまた照れる。

とはいえ、「私を支えてくれる人はこの人しかいない」と思い、稲盛氏は朝子さんにプロポーズし結ばれることになった。実は、その時、すでに京セラの創業に向けて準備していたのだ。1958(昭和33)年12月13日に稲盛氏は松風工業を退社する。

その翌日の14日、稲盛氏と朝子さんは、松風で先輩の北大路李正氏を媒酌人とし、蹴上(けあげ)の京都市庁公舎で稲盛氏と朝子さんは結婚式を挙げた。コーヒーと小さなケーキだけという質素な披露宴から、大きな夢を具現化した「経営の神様」とその妻が誕生するとは、誰が想像しただろうか。人生とはわからないものだ。

そもそも、稲盛夫妻のオシドリ夫婦ぶりは良く知られている。晩年は、奥さんの体調も思わしくなく、一緒に行動できなくなっていたようだが、以前は、「休みの日は、女房とお好み焼きを食べに行きます」「女房と近所のスーパーで買い物するのが実に楽しい」と俗人の顔を見せていた。

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