「悪魔の詩」著者襲撃が極めて難しい問題なワケ 「表現の自由」はどこまで認められるべきか

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西側でも、ラシュディを強力に擁護する声ばかりだったとは言いがたい。アメリカの元大統領ジミー・カーターは1989年、ニューヨーク・タイムズに寄稿し、ファトワによる死刑宣告を非難したが、ラシュディは預言者ムハンマドを「中傷」し、コーランの「名誉を傷つけた」とも述べた。

イギリスの作家ロアルド・ダールは、ラシュディを「危険な日和見主義者」と呼んだ。同じくイギリスの小説家ジョン・バーガーは、「この本を書く罪も、読む罪も犯していない」第三者を危険にさらす「20世紀独特の聖戦」を解き放つ結果を招かないよう、この小説を撤回するようラシュディに示唆した。

「表現の自由」がヘイトスピーチの隠れみのに

その一方で、当時はイスラム世界にもラシュディを擁護する声がある程度は存在した。例えば、エジプトの小説家ナギーブ・マフフーズは、『悪魔の詩』を侮辱的な作品と受け止めたものの、出版する権利はある、とラシュディを擁護する書簡に署名している。

1990年、ラシュディは慎重な言葉で謝罪声明を出し、ファトワの撤回を求めたが、失敗に終わった(彼はこうした行動に出たことを後に悔やんだ)。ファトワによる死刑宣告が出てからの数年間、ラシュディは厳重な警備の下、ロンドンで暮らしたが、その間、彼の作品に関わった翻訳者や出版社が襲撃され、中には命を失った者もいた。

1998年、イラン政府が今後はこのファトワを支持しないと表明した後、ラシュディはニューヨークに移住。同地の文壇や社交界の集まりの常連となり、パーティーやイベント、メディアに登場するようになった。

だが、このファトワ(公式に取り消されることはなかった)の重要性が薄れる一方で、表現の自由をめぐる議論には変化が生じていた。それがとりわけ激しかったのがアメリカだ。

他人の気分を害する言葉は「暴力である」という考え方が広まり、進歩的な若者らが「表現の自由」はヘイトスピーチの隠れみのに使われるケースがあまりにも多いと批判を強めるようになった。「表現の自由」は保守派のスローガンとなり、リベラル派による「反対意見の検閲」を非難する道具として持ち出されるようになっていた。

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