いもいもに通ったって、みんなが勉強ができるようになるわけでは決してない。でもそれでいいって、お互いに思えるようになる。そうなると結果的に、ささやかだけど、子どもも生き生きするんですよ。そこを目的にしているわけでもないけど。
いもいもに来ている親御さんはみんな腹が据わっていると思います。それでもやっぱり勉強ができなくていいのかなという不安は拭えません。そこで僕は言うんです。
「名門校の子どもたちは少なくとも勉強は人並み以上によくできていて、彼らの親はいいよなって思うことがきっとあるでしょ」って。さらに続けます。「でも、名門校の親御さんたちは、みなさんよりも、もっと子どもの勉強のことを心配してますよ」って。
学力の差をなくそうとしてもキリがない
もってるものは、手放せなくなるんですよ。自分にとって必要なのがどれくらいかということよりも、ひとよりももっと多くもとうとする競争から逃れられなくなります。この場合の「もってる」っていうのは、絶対的な学力というよりも、同世代の子どもたちのなかで優位なポジションにいるかどうかというような意味ですね。
だから、学力の差をなくそうとしてもキリがないですよ。ちょっとの学力差を大げさにとらえてしまう社会のほうをなんとかしないと、格差なんてなくならないでしょう。たしかに大卒のほうが平均収入は高いだろうけど、それと人生の幸せとは別の話ですよね。それはフィリピンの施設の子どもたちを見てもつくづく思います。その点、日本は苦しいよ、いま。
あるとき子どもといっしょに川原でぼーっとしていていい気分になって、「いま日本全国の子どもたちが学校の教室で黒板に向かってきれいに並べられた机と椅子にちゃんと座って背筋伸ばして、はい!って手を挙げてたりするんだぞ。不登校で良かったなぁ」って言ったら、その子、「ほんとに良かった」って言ってました。ふざけて言ってるんじゃなくて、本当にそう思ってるんですよ。
だって、どんな時代にも子どもなら当然のように得られていた、子どもとしていちばん大切な環境を、取り戻せたんだから。(談)
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