確率がわかる人と実はわかっていない人の決定差 人間の非合理さを露呈させる簡単な確率の問題
あるいは、「モンティは答えを知っていてヒントをくれたわけだから、それに応じないのはばかげている」という直感から考えてみてもいい〔モンティが車の置かれたドアを開けることは決してないというところがポイント〕。それなのに、なぜ多くの数学者、大学教授、その他の大物は間違えてしまったのだろうか。
前回「論理がわかる人とまるでわからない人の決定的差」(7月12日配信)で紹介したウェイソン選択課題に潜んでいた問題と同じように、モンティ・ホール問題にもわたしたちの「直感的な思考回路」に間違いを犯させるような要素が含まれている。しかも今回は「熟慮を司る思考回路」もうまく機能しない。多くの人が、正しい答えの説明を聞いてもなお納得できないのはそのためだ。エルデシュもその一人で、数学者のプライドをかなぐり捨ててこのゲームのシミュレーションを何度も見て、ようやく納得したそうだ。
確率の法則と直感はどこがずれている?
だがシミュレーションを見ても、実際に自分でやってみても、どうしても納得できないという人が少なくない。ではこのゲームの確率の法則と、わたしたちの直感は、どこがずれているのだろうか?
ヒントの一つは、マリリンに反論した自信過剰の人々が、自分の考えをどう正当化したかに隠されている。そこには、時に軽率に、他の確率パズルの考え方が持ち込まれていた。
たとえば多くの人は、未知の選択肢(ここではまだ開けられていないドア)の確率は皆等しいと思い込む。それはコインの裏表やサイコロの目のような、対称になっているギャンブルの小道具には当てはまるし、同じ選択肢でもあなたが何も知らない状態で最初の1つを選ぶときには当てはまる。だがそれは自然法則ではない。
多くの人は、因果連鎖を頭のなかで描き出す。1台の車と2頭のヤギは最初からドアの向こうに配置されていて、ドアが1つ開いたからといって、そのあとであちこち動いたりはできない。このような因果メカニズムの独立性を指摘することは、ほかの場合においては錯覚に気づかせるための一般的な方法で、「ギャンブラーの誤謬」についてもそうだ。ギャンブラーの誤謬に陥った人は、ルーレットで赤が続くと次は黒の確率が上がると思い込む。だがルーレットに記憶などあるはずもなく、一回一回はあくまでも独立した事象である。
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