確率がわかる人と実はわかっていない人の決定差 人間の非合理さを露呈させる簡単な確率の問題
だが確率はこれとは異なり、17世紀に発明された概念ツールである。「確率」には複数の解釈があるが、リスクを伴う判断にとって重要なのは「未知の事象に対するあなたの確信の度合い」だろう。だからある結果へのわたしたちの確信を変えるような証拠が一つでも出てきたら、その結果の確率は変わるし、それに基づいた合理的な行動も変わる。
確率は物理的傾向性だけではなく、物理的実体のない「知識」にも依存しているということが、人々がモンティ・ホール問題でつまずく理由となっている。彼らはこういう場合、車はすでにドアの1つのうしろに置かれていて動かせないという傾向を感覚としてつかんでいて、司会者がドアの1つを開けてもその傾向を変えられたはずはないと知っている。しかし確率は世界に関係するのではなく、世界についてのわたしたちの“無知”に関係する。新しい情報はわたしたちの無知を減らし、確率を変える。
すべてを見ている司会者が新情報を提示するのだから
まだぴんと来ない、どこか変だと思う人は、わたしがたった今投げたコインが表向きになっている確率について考えてみてほしい。表の確率はあなたにとっては50パーセントだが、わたしにとっては100パーセントだ(ちらりと見たから)。同じ出来事でも知識が変われば確率も変わる。モンティ・ホール問題では、すべてを見ている司会者が新情報を提示するのだから、当然確率も変わる。
そこで一ついえるのは、司会者の助けによる無知の減少が、もっとあからさまな物理的状況に結びつけば、この問題の答えも直感的にわかるようになるということだ。実際ヴォス・サヴァントは、もっとたくさん(たとえば1000枚)ドアがある場合を想像してみてくださいと読者に呼びかけた。
あなたはそのなかの1つを選ぶ。続いてモンティが998枚のドアを開ける(すべてヤギが現れる)。残ったドアはあなたが選んだドアとモンティが残したドアの2つだけ。さあ、どうする?
ここまで数が増えれば、モンティの選択は意志決定に使える情報だと思えるだろう。わたしたちは彼がどのドアを開けるか決めるために、車がどこにあるかを確認している様子を思い浮かべることができるし、そうなれば、彼が開けなかったドアは彼がそのうしろに車を見つけたというヒントであり、したがって車そのもののヒントだと思えるはずだ。
前回:論理がわかる人とまるでわからない人の決定的差(7月12日配信)
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