確率がわかる人と実はわかっていない人の決定差 人間の非合理さを露呈させる簡単な確率の問題

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ヴォス・サヴァントに手紙を送ってきた学者の1人はこう書いていた。「それぞれの勝率が等しい3頭の馬のレースを思い浮かべてください。スタートから50フィートのところで馬3が倒れたとしたら、残った馬1と馬2の勝率はそれぞれ3分の1ではなく、2分の1になるわけです」。したがって、馬1から馬2に乗り換えても何の意味もないことは明らかだと彼は結んでいる。

ところがモンティ・ホール問題はそれとは仕組みが異なる。あなたが馬1に賭けたあとで、天から神の声が聞こえてきて、「勝つのは馬3ではないぞ」と告げたと想像してみてほしい。「馬2」について警告を発することもできたかもしれないのに「馬3」と告げたのだ。だとしたら馬1から馬2に乗り換えるのはそれほどおかしなことではない。『レッツ・メイク・ア・ディール』ではモンティ・ホールがその神だった。

司会者のこの“神の立場”に目を留めれば、モンティ・ホール問題の風変わりな点に気づくことができる。つまりこの問題では、司会者は会話の通常の目的──聞き手が知るべき情報(この場合なら、どのドアに車が隠されているか)を共有すること──を無視し、視聴者の緊張感を高めることを目的としている。

確率を傾向と混同するという弱点

そのためには、司会者は“全知の存在”である必要があるのだ。普通の世界でわたしたちがヒントを探すとき、そのヒントはわたしたちの探索とは無関係に存在するが、全知のモンティは答えを知っていて、わたしたちの選択も知っていて、それに応じてヒントを出してくる。

この謎めいた、だが有用なヒントに人々が鈍感だという事実こそが、この問題の核心にある認知の弱点を教えてくれる。すなわち、確率を傾向と混同するという弱点のことである。傾向とは、ある対象の状態や動きが何らかの偏りを見せることをいう。傾向についての直感は、世界に関するわたしたちのメンタルモデル〔行動の結果を予測したり、結論を導いたりするときに利用される、経験や知識を基にした前提〕の大きな部分を占めている。

たとえば人は、「曲げられた枝は跳ね返りやすい」とか、「ヤマアラシは肉球跡が2つの足跡を残しやすい」といった感覚をもちうる。傾向は直接感知することはできない(枝が跳ね返ったところか、跳ね返らなかったところしか見ることができない)が、対象の物理的構造をよく調べ、それを因果律と突き合わせることによって推測できる。乾燥した枝は跳ね返らずに折れるかもしれない、というのも傾向である。

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