「君はまだ年が若く将来があり、他日に大志を抱く俊秀である。いたずらに才を誇り、知に驕るといった弊を改めて、深慮熟考の風を養うべきだろう」
相手の才能をしっかりと認めながら、「もう少しよく考えた言葉と行動を」と、進むべき方針を示している。たが、大久保の思いが福地の心に届くことはなかったらしい。
岩倉使節団が帰国すると、福地は東京日日新聞(毎日新聞の前身)の主筆となり、ジャーナリストとして歩み始めた。ニュースの現場では、福地の「即知」の才が大いに発揮されることになる。
西南戦争が起きれば、他社が尻込みするなか、福地はすぐさま戦地の熊本城へ向かっている。着の身着のままで農家に泊まりながら書いた連載記事は、戦場ルポとして大きな評判を呼ぶこととなった。
その後も新聞記者として名を馳せた福地だったが、明治11(1878)年の暮れに東京府会議員選挙が行われると、下谷区から出馬して当選を果たす。さらに、東京府会で福沢諭吉と議長選挙を戦って、24票を獲得。18票だった諭吉に勝利している。
まさにわが世の春である。福地は、大久保から欧米巡回中にかけられた言葉を思い返しては「何をバカなことを」と奮起したのかもしれない。
「日本の十傑」で福沢諭吉に次ぐ票数を獲得
時は流れて明治18(1885)年。今日新聞(現在の東京新聞)では、「日本の十傑」を決めるというユニークな企画が行われた。1406通の応募があり、結果は次のようなものだった。
〔軍 師〕 榎本武揚 425票
〔学術家〕 中村正直 592票
〔法律家〕 鳩山和夫 618票
〔著述家〕 福沢諭吉 1124票
〔新聞記者〕 福地源一郎 1089票
〔教法家〕 北畠道竜 486票
〔商法家〕 渋沢栄一 596票
〔医 師〕 佐藤進 565票
〔画 家〕 守住貫魚 459票
明治18年といえば、近代的な内閣制度が創設され、伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任した年だ。927票を獲得して政治家部門で1位に輝くのも納得である。
そして、最も多く票を獲得したのは、「著述家」部門で選ばれた福沢諭吉で、実に1124票を得ている。福地源一郎はその諭吉に次いで、1000票以上を集めたことになる。
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