大久保の場合は、部屋のドアを叩くとまず従者が出てくる。従者に要件を伝えてから、しばらくして、ようやく取り次いでもらえるという具合だ。そして出てきた大久保にメモを手渡しても、黙って受け取るのみで、その場で意見を言うことはなかった。
もともと寡黙だったところに、欧米の豊かな文明に衝撃を受けて、さらに言葉を失ったのだろう。岩倉使節団のなかには、そんな大久保と相容れない人物がいた。のちにジャーナリストとなる福地源一郎(別称「福地桜痴」)である。
福地自身にも、大久保によく思われていないことは、痛いほど伝わってきた。そこで、ロンドン滞在中に思い切って、福地は大久保にこう切り出している。
「私が閣下によく思われていないことはわきまえております」
大久保も真正面からぶつかってくれば、率直な意見を相手に伝えるタイプだ。2人は互いの価値観を率直に述べ合うことになる。
それにしても、威圧感のある大久保によくぞそんなことが言えたものである。福地源一郎とは、いかなる人物なのか。
神童と呼ばれ、英語にも長けていた福地源一郎
福地は天保12(1841)年に長崎で医師の息子として生まれた。幼年のころから漢学と読書、習字に打ち込んで「神童」と呼ばれたという。
16歳から江戸に出て、森山栄之助の英語塾で学ぶ。その後は、翻訳の仕事に従事し、2年後には、御家人に取り立てられている。幕末期には、外国奉行の下役として活躍することとなった。
明治時代が始まると、幕臣の身分を捨てて、平民として過ごした福地。持ち前の英語力を生かして、翻訳業や塾の講師などで生計を立てていたが、意外なところから世に出ることとなる。
福地は16歳で江戸に出仕してから、榎本武揚らに吉原での女遊びを教えられた。それ以来というもの、吉原に頻繁に通っている。明治維新後も福地は吉原通いをしているうちに、旧幕臣で大蔵省に仕えていた渋沢栄一と出会い、さらに伊藤博文とも知り合う。以後、伊藤の力で、福地は引き上げられて、大蔵省に出仕するようになった。
英語に長けていたことから、福地は伊藤に随行して洋行する。そして、ついには、岩倉使節団の一員となり、欧米にわたることにとなった。
福地は岩倉具視の口真似をしてみんなを笑わせるなど、ムードメーカーとして存在感を発揮している。誰もが緊張気味の洋行だっただけに、福地のジョークはよい潤滑油となったことだろう。
だが1人だけ笑わず、押し黙っている人物がいる。大久保利通である。
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